サアサア、と静かな音を立てて雨が世界を濡らしている。傘をさしても何時の間にか衣服がびっしょり濡れてしまうような、そんな種類の霧雨だ。
街灯の下でだけ絹糸のように細く細く浮かび上がるその軌跡をぼんやりと眺めながら、ゆかりは迎えの者を待っている。帳場の奥、年代物の柱時計がコチコチと時を刻む。その小さな音が耳について離れないのは、ゆかりが少し焦れているからだ。
伝えておいた終業時刻はとうに過ぎた。何やら調べ物をしている店主が時折こちらを盗み見ているのを感じるが、説明は非常に困難だった。
――まず、霊とか信じない人だからなあ。
学生時代からあらゆる意味で世話になっている古本屋、麒麟堂。幅広い品揃えを誇るその店の主は、たしかに懐も見識も深かったが、ことオカルト的なものに関しては懐疑的だった。怪談そのものを愛するという点で、彼とゆかりは非常に気が合ったけれども、その説明体系についてとなると両者譲らず、仕事を放り出しての議論に発展することもしばしばだ――しかしもちろん、《話せない》本当の理由はそんなことではない。
ゆかりは知らず唇を噛む。出会った時よりも髪が大分白くなった店主を、気づかれないようにそっと見る。
深い皺が刻まれた横顔。大陸を何年も放浪しただとか、外国に家族がいるだとか、常連客らをして冗談半分に囁かれる彼の過去についてはよく知らない、けれど、これだけはわかる。
――あたたかな人生を送ってきた人だ。
仕草ひとつ、物腰ひとつからそんなことは容易に知れる。そして、
――《こちら側》に巻き込んで良い人ではない。
ひそかな決意が、ゆかりを新たな憂鬱に落とし込む。
自身が陰魄に狙われているらしい、という現況に心当たりはとんとない。けれど常識的に考えて、ゆかりの春からの新たな住まい、そしてその移動に伴ってできた新しい友人たちに関係がないということはまずないだろう。ということはつまり、そう遠くないいつか、身の振り方を決めなければならないタイミングが否応なしに訪れるということだ。共に大切な縁を結んだどちらの世界を選ぶか、ということ――
こみ上げるため息をみたび殺したその時、雨脚を照らす無骨なスポットライトの下に、す、と陰が差した。
艶々と光る黒髪も、思わず触れたくなってしまう襟のファーも、天然自然の理に犯される様子は全くない。にも関わらず、彼の表情は冴えなかった。まあそれはいつものことか。
カラカラと鳴る扉を引けば、彼――犬塚ガクはやや俯いていた顔を上げた。闇を吸い込んだがごとき瞳がゆかりを射るように見つめる。
束の間、視線が絡んだ。息を吐くタイミングで、そらした。
そのまま体ごと返し、《見えない》店主に会釈をして戸を閉める。物思いにふける様子から一転、《何もないのに》《突然》外に出た店員に彼は不思議そうな顔をしたが、首を傾げるようにしながらもうん、と頷き、また作業に戻った。
細かな水滴の降りかかる軒先で、あらためて従兄妹を見つめる。胸に浮かび上がるのは疑問。
「……雨生さんは?」
ガクは無言で首を振る。
「……出ようとした時に、電話があった。……また、様子のおかしな人間が出たらしい」
「それは」
「わからない」
かぶせるように言った後、死者は大股一歩で光の下から抜け出す。その勢いのままどんどんと歩いた、真っ直ぐに、軒下にいるゆかり目指して。思わず後ずさったゆかりの背中は、冷たいガラス戸に当たってそれ以上は進めない。
「大丈夫だ。俺が護る」
差し出された、というよりは突き出された左手に戸惑い、見返す。と、彼は苛立ったように逆の手で髪をかきむしると、乱暴にゆかりの右手を取った。
その時何かが鼻先をかすめ、ゆかりは何度か瞬きをした。
夏の始まりを告げるような、濃く重い花の香り。感知したと思った瞬間、それは雲散霧消する。
「あ、ありがとう」
そして片手で傘を開こうと苦戦するゆかりに、ガクは目を丸くして不承不承手を離した。いかにも《少しだけ》だと言いたげな様子に、ゆかりの頬は薄く染まる。

***

話は十五時間ほど前に遡る。河原での戦闘の後、同日、深夜。空と火の案内屋による不器用な治療と同時並行で行われた緊急会議には、もちろんうたかた荘のオールキャストが集っていた。
「そんなもの休め」
当然のように言い放った眼帯の青年をゆかりは見上げた。
「そういうわけにもいかないんです」
現在の議題は、「ゆかりがうたかた荘から離れなければならない場合はどうするか」――有り体に言えば、アルバイトや仕事の打ち合わせなどの際はどう対応するか、という話だ。
「奴らをどうにかするまでだ」
「期間が決まっているならまだしも」
と、暗に未だ敵の所在を突き止めることすら叶わない自分たちが皮肉られていると受け取ったらしい正宗は、目に見えて不機嫌な様子になった。それは誤解だ、と思うけれども、そう頭ごなしに言われてはゆかりも黙っていられないのだ。
「自分の命とどっちが大事だ」
「……それ言われちゃうと、ぐうの音も」
「違うだろ」
険悪になりかけた空気に割って入ったのは明神。しかも彼は器用にも、左手でガクの顔面を、右手で振り上げられたハンマーを押さえている。静かに八面六臂の活躍を見せる若き案内屋は、その姿勢のまま言葉を続けた。
「正宗が言ってるのは、姫乃を活岩の鯨の腹ン中に入れるっていうのと同じことだ」
「……規模が違うだろう、規模が」
「そんなの関係ない」
涼しげに微笑み、案内屋は陽魂の向こう脛に蹴りを入れた。
「やりたいことのために命を張る。俺たち、いつだってそうやってきたろ?」
「……明神さん、」
悶絶する従兄妹に手を貸すべきか、殺し文句を放った大家に感謝の気持ちを伝えるべきか。迷っているうちに案内屋たちの間で意見はまとまったらしい。
それでも渋面を隠そうとしない火神楽正宗に、ゆかりは小さく頭を下げ、後ろに控える子供たちに向き直った。姫乃、エージ、ツキタケ、アズミ。いずれも真摯な瞳でゆかりをじっと見つめている。小さなアズミの、ギュッと握られた拳が愛しい。
「……アズミちゃイタタタ」
おもむろに開こうとした唇の端を絶妙のタイミングで思い切り抓られ、ゆかりは涙目で中空を見た。白魚のような指をもってしてこのような暴挙に及ぶのは、この家には一人しかいない。
「何深刻な顔してんのよ、バカみたい」
パタパタと忙しく羽根を動かし、頬を膨らませた皇帝コウモリは誇り高い口調で言い放つ。
「ただの陰魄でしょ?そんなもんメじゃないし」
その言葉に、痛みとは違う理由で視界が揺らめく。
「……なによその顔、」
空気の変化を察したか、コクテンは一層激しく羽ばたき、天井をすり抜け視界から消えた。と、
「Don’t worry, 心配いらないよ、ユカリ」
追い討ちをかけるようにバフォメットが深く優しい声で言う。
「僕たちは敵となるものは殲滅する」
「……キヨイさん……」
「ほら、大丈夫だろ」
明るく笑った明神の、Tシャツの袖のあたりを姫乃が引いた。
「雨生さんとか、協力してくれないかな」
「ああ、そうだな!」
かくして方針は定まった。力強く笑う仲間たちに囲まれ、ゆかりは嗚咽を止めることができなかった。

***

手を繋いだまま、歩く。傘をささなければならないのがいかにも邪魔だった。
「雨、やまないね」
「ああ」
圧倒的に沈黙の方が長い帰り道。こんな状況でなければ、どれだけ幸福だったことだろう。
橋を渡り、駅前の繁華街を抜け、近道のために路地に入る。《ホーム》まではあと少し――
ガクの足が止まった。
「ガクさん?」
傘を傾け、見上げる。落ちた水滴がどういうわけか首筋を伝い、ゆかりは冷たさに身を竦めた。
「ガクさ」
天気のせいか、気温のせいか、周囲に人気は全くない。人がやっとすれ違えるくらいの幅しかない道の両側には高いブロック塀がそびえていて、傘の骨が少し擦れた。
「こんな時に不謹慎かもしれないが」
無数の白い線と闇を背景に、死者は厳かに口を開く。
「ゆかりん」
「……はい」
「好きだ」
呆然とするゆかりを、ガクは熱い眼差しで見つめている。どこか遠くでサイレンの音。
力を失った左手から傘が滑り落ちた。雨がゆかりの全身を濡らす。じわじわと、またひたひたと。
「お前のことは俺が護る」
「……ガ、」
強い力で抱きすくめられる。そしてゆかりは呼吸を忘れた。
永遠かと思われた抱擁の後、そっと体は離される。ただし息がかかるくらいの距離はそのままだ。四白眼を見開いたまま、ガクは顔をゆっくりと近づけ――
その口元に掌を当てた。反対の手は、自身の腿に。
いつか白金から教わった目くらましの術を、補強してくれたのは正宗だ。肌身離さぬ守り刀。
「……ゆかりん」
「惜しいなー。何でそこ、間違えちゃったかな」
「……何を」
「ああ、もしかしてアナタ、頭の中が覗けるタイプ?」
周囲では、いつの間にか梔の花によく似た濃い香りがどんどん強くなっている。ふつふつとこみ上げる怒りと羞恥で、ゆかりの唇は否応なく上げられる。
「《願望》を見るなんていやらしいのね」
口を閉じたガクは傷ついたような表情になる。
「……俺は」
その喉元に刃を向けた。
「黙ってって言ってるの」
周囲から音が消えていく。震えそうになる手に力を込めた。
一方、ガクを装った何者かは銀色に光る鋭い切っ先をしげしげと見つめ、深いため息をつくと、
わらった。
ゾワリ、と、ゆかりの全身に鳥肌が立ち、
「……っ!!」
みぞおちに鈍い衝撃。
力を失った体はズルズルと崩れ、
ブラックアウトする直前、ゆかりは白く発光する華奢な手首を見たような気がした。
なぜか、胸が痛んだ。

(2013.05.27)


モドル