「泣き出しそうな空だな」 呟いた明神を横目で見、ガクは鼻を鳴らした。 「気障な奴だ」 「んなことねーよ」 悪口を気にするふうもなく、案内屋は両手をジーンズのポケットに突っ込む。 暮れなずむ空はたしかに重い雲に覆われていた。晩秋の冷えた空気は、かすかに水の匂いを含んでいる。ひたひたと押し寄せる雨の気配。曖昧な闇をガクは睨む。その向こうに潜む敵を視線で射殺せるとでも思っているかのように。 一方、横に立つ明神はそんな彼に頓着などしない。二人が佇む玄関ポーチ、その軒先からヒョイと顔を出したかと思うと途端に顔をしかめてみせる。 「嘘」 「何が」 「降ってきた」 「……そうか」 頬をはたくような仕草をしたのは、水滴を拭っているのか。彼の仕草はいつでも豪快で、それは師匠譲りなのだとあの無礼な老人がいつだか言っていたような気がする。ガクの知らない、このアパートの初代管理人。 彼がいなければ、ガクはこの腹の立つ男とも姫乃とも、そしてゆかりとも出会うことがなかったのだ。そう思うと不思議な心地がした。己が今、ここにいる理由(わけ)。 マジマジと案内屋の顔を見ながらそんなことを考えていると、見つめられた方は何とも気味の悪そうな顔になった。 「なンだよ、俺の顔に何かついてるか」 「別に……ただ」 「ん?」 「いつ見ても阿呆面だな」 「この野郎!」 掴みかかってきた明神を軽くいなし、ガクは再び闇に目を凝らす。元より明神も本気ではなかったらしく、拳が退けられたのを見るとあっさり離れた。視界から消えた彼はしばらくその静かな気配を湛えたまま隣でぼんやりしていたが、やがて身を翻したらしいのをガクは空気の流れで知る。 一瞬の間ののちに背後で響いたのは、ホラーゲームにでも使われそうな重い重い軋み音。 ゆるりと振り向いたガクが見たのは、先ほどまで固く閉じられていた玄関扉が案内屋のたくましい腕によって大きく開け放たれた光景だった。室内はまるで昼間のように明るい。皓皓と光を放つ電灯が、暗さに慣れた目に眩しかった。 「どうした」 「いや、そろそろかなと……ああ、うん」 目を細め、少しばかり距離のある場所に掛けられているリビングの時計を見つめると、彼は首を傾げた。 「虎次郎さん、遅いな」 それは今日、ガクと共にゆかりを護衛する任務を命ぜられた男の名。 一人で十分だと主張するガクの意見は受け入れられなかった。理屈はわかる。が、モヤモヤとした感情が腹の底に溜まっているのも事実だ。 「な、遅いよな?」 「……」 「なあ、ガ……おい」 「何だ」 「貧乏ゆすり」 気づけばカタカタと右脚だけが痙攣するように震えていた。 ――こいつに指摘されるなんて。 ゼンマイが切れたおもちゃの兵隊のようにピタリと動きを止めたガクに、明神は苦笑する。 「だーいじょうぶだよ」 「何が」 「ゆかりんだってわかってるって」 「……前から思っていたが、その呼び名」 キッと見据えれば、案内屋はわざとらしいほどに目をみはる。 「よびな?」 「馴れ馴れしい。不愉快だ」 「……ふっ」 「何がおかしい!!」 破顔一笑。晴れ渡る青空のようなその表情に、ガクの苛立ちはますます高まるが、その様は猶の事、案内屋の笑いを誘ったようだ。今や直角に体を折り曲げ、くつくつと笑う彼の後頭部を思い切り殴ろうとガクは拳を固め、 「お前もそう呼べばいいじゃん」 「……!!!」 その姿勢のまま固まった。 「ば、おま、おまえな、」 ついこの間まで恋い慕っていた少女を彷彿とさせる愛称を、よりによって己が、口にできるはずがない。拳を握りしめたまま、ガクはワナワナと震えた。 もちろん、姫乃に恋をしていたことを後悔する気持ちは毛頭ない。彼女は素晴らしい女性、男性が恋焦がれるに相応しい美しく、愛らしく、そして誰より強い少女だ。彼女を好きになった自分をガクは誇らしくさえ思う、それは揺るぎない事実である。 けれど、別の女性を想う現在に限って言えば、その過去はガクが最も遠ざかりたいものであることもまた事実だった。《姫乃ちゃんのことが好きだったくせに》――近い将来、彼女(ゆかり)に想いを告げた時、もしもそんなことを言われようものなら、ガクは一生立ち直れる自信がない。もう死んでいるけれども。 口をパクパクと開け閉めさせ、声にならない声で抗議を試みるガクに明神が何か言おうとした時、 のどかな空気を切り裂くように、鋭く電話のベルが鳴った。 明神の表情が変わる。応答を求め、けたたましく鳴り続けるその音は聞きなれたもののはずなのに、 なぜか、どうしようもなく不吉な予感がした。 *** 「申し訳ありません、兄貴!!!」 「俺はお前の兄ではない」 汗だか雨だかわからない水にまみれたサングラスの男に、ガクは冷たく言い放つ。 電話の主は雨生虎次郎その人だった。開口一番、謝罪の言葉を口にした彼は、組内でトラブルがあったのだと告げ、とにかく急ぐと言ったはいいが、結局、ゆかりを迎えに行くと約束した時間からはおよそ30分が経過してしまっている現在である。今頃彼女はさぞやきもきしていることだろう。 「作家先生には……!!」 「連絡をしたが繋がらない。携帯を忘れていったようだ」 雨生からの電話が切れた後、すぐにうたかた荘の黒電話から発したコール音は、そっくりそのまま階上から谺を返した。女性の部屋に踏み込むわけにはいかないとガクが強硬に主張したせいもあり、真偽は確かめられたわけではなかったが、とまれ彼女に現状が伝わっていないことは間違いない。 「というわけで、急いで」 手早く彼の髪を拭いた雪乃が、ビニール傘を手渡した。強面の男は赤面する。 「雪乃サンのお手まで煩わせてしまうとは、男虎次郎、誠に」 「行くぞ」 「……ッ、はい!」 地獄の底から響くような声音に彼はすぐさま口を噤み、ペコリと頭を下げるとガクよりも早く走り出した。傘を小脇に抱えたままなのはいい心がけだ、と思い、ガクもその後を追う。すぐに並んだ。 さながら脱兎のごとく走りながら、雨生は矢継ぎ早に質問をする。 「こちらには」 「何が」 「おかしな奴は」 「来ていない」 ヤクザの幹部は目に見えてほっとした。 「そっちは」 「は、」 言葉を継いだのは息が切れているわけではない。どう言ったらよいのか、そんなふうに首さえ傾げ、スピードを緩めることなく雨生は言う。 「同時多発、です」 「何?」 「瞳が紅く染まる。そして、手がつけられないくらい凶暴になる」 「それが、」 「はい。確認できただけで、4人」 己が凶悪な面相になっていることにガクは気づかない。 「まあ、殴ったら正気には戻りました」 「……本当に?」 「ええ。ただし全員病院送りですが」 スラリとそんなことを言う彼に、驚きを覚えるガクではない。 「それにしても、」 「おかしい」 「……ええ」 中空を見つめる雨生は、7月の顛末を思い出しているらしかった。 「何ですか、ハロウィンは西洋のお盆だからですか?」 「知らん」 言い切れば、彼は少しだけ唇を緩めた。全速力で疾走しながら。 「兄貴は本当に、作家先生のことが大事なんですね」 「!!?」 「あ、この角を曲がれば」 そしておそらくはオリンピック選手並みのスピードで目的地に到達した二人を迎えたのは、 しとしとと降る雨に濡れそぼった古本屋の店先だった。 少し離れた場所に立つ街灯、その明かりのおこぼれを頂くそこに、人影は、ない。 *** 帰り道は無言だった。 角を曲がり、陸橋を渡り、大通りを走る。 口にせずとも気持ちは伝わった。 護るべき人物の不在。それはすなわち、最悪の可能性を示している。 ――化野さん?なら、ほんのちょっと前に帰りましたよ。 ――誰か待ってるふうだったけど、急に、会釈して。 ――えっ……と、あなたは、失礼ですがどちら様? 言葉を濁した雨生が踵を返した時、ガクはきちんと横に付いた。最初の数歩は小走りで、その後は徐々にスピードを上げて。 見慣れた景色が速度に溶ける。もはや夕闇そのものの黒、人工的な明かりの白、そして―― 目の端に映った鮮やかな朱色に、ガクは急ブレーキをかけた。 何やら喚く連れの言葉は気にしない。勢いよく首を横に向けてそれを見る。 地の色はベージュ。その上に、唐草に似たモダンな模様が懐かしい朱で描かれていて―― 「ゆかりの、」 「え、」 ガクと同じく急に足を止めることになった雨生は、さすがに息を弾ませながら体の向きを変えた。 「ゆかりの傘だ」 「これが?」 彼が伸ばした手を制し、足早に進む。死者たる己が拾うことはできない、それは優美なラインでもってガクの心を思うさま誘う―― 強い光が目を刺した。 束の間の沈黙。 再び瞼を開けた時には、景色は一変していた。 「……兄貴?」 疑問符の付いた呼びかけが、何を意味しているのかわからないほど鈍感ではない。 「兄貴、一体」 「お前には」 「え?」 それ以上の何を意図することもない、純粋な問いかけ。だからこそ、わかった。 「お前には《見えて》いないんだな」 それは蜘蛛の巣に似ていた。 地面に転がった傘を中心として、レース状に広がる光の線。淡く発光するそれらはやがて一本にまとまり、路地の向こうへと真っ直ぐ続いていた。 ――道しるべ。 直感的にそう思った。 走り出したガクの後ろで、やはり雨生が何かを叫んだが、足を止めることはできない。 心が逸る。脳裏に浮かぶのはただ、彼女の笑顔。 俺が護るのだ。他の誰でもない、この俺が。 *** 誰かに呼ばれた気がして振り向いた。けれど、すっかり日の落ちた街路の向こうには人っ子一人見当たらない。 「どうした?」 「いや、」 不審げな表情の澪には何も聞こえなかったようだ。だから白金は気にしないことにした。携えた小さなスーツケースに雨がかからないよう、傘の角度を調整する。リュックの方が両手が空いて便利だと知ってはいたが、スーツを仕事着にしている都合上、遠出の友はもっぱらこちらだった。 あらためて小さく息を吸い込む。2ヶ月ぶりの東京の空気。発った時はまだ蝉の声が煩かった。今はもう、スーツの上に上着を羽織ってもいいくらいの気候だ。 「急に帰ったら、みんなビックリするね」 「仕方ないだろう、連絡する暇もなかったんだから」 「そうじゃなくてさ」 頬を膨らませた澪に笑いかける。憮然とした表情の彼女を可愛いな、と思い、また、普段通りのその様子に安堵もした。 澪の、第二の師匠が亡くなったのは二週間前のことだそうだ。一度は持ち直したと聞いていた白金はかなり驚いたが、予想に反して彼女はサバサバとしていた。天寿を全うした、ということらしい。 ――でも、油断は禁物だ。 滅多に悲しみを表に出さない彼女を思い、白金はまたひそかな決意を新たにする。強がるばかりの彼女の隣に、素知らぬ顔で居続けること―― 肩に何かがぶつかった、その勢いにつんのめる。何とか顔面を強打することだけは避けたが、傘を手放してしまった上、両膝をアスファルトにしたたかに打ちつけ、白金は呻いた。 「すみ、すみません!!!大丈夫で……あれ?」 聞いたことのある声がした。涙目になりながら振り向くと、そこにいたのは見覚えのある若い男性。とは言え実際、彼は白金よりは少し年上のはずだ。 「白金の兄さん!!それに澪姐さん!!」 「あ、えっと、雨生……さん?」 「そうです!覚えていてくださいましたか!!」 とんだご無礼を、と平謝りに謝る彼を制し、白金はゆっくり立ち上がった。体に当たる雨がなくなったな、と思ったら澪が傘を差しかけてくれていて、手刀を切って礼を言う。澪は小さく頭を降った。 「ああ、お召し物が、」 「いえ、大丈夫です。……何かありました?」 全身びしょ濡れの彼の姿には、そう問わずにはおれないものがあった。途端に表情を引き締めた雨生に、白金の中の厭な予感が増幅する。 「うたかた荘の作家先生が、」 「……ゆかりちゃん?」 「先生が、攫われました」 雨の音が、急に大きくなったような気がした。 *** 「さらわれ……って、どういう、」 「は、それが」 「陰気はどうしたァ!!」 怒声に振り向く。澪が般若の形相をしていた。 「い、陰気?」 「あの、ガク君のことだと思います」 白金のフォローに雨生はポン、と手を打ち、 「それがその」 語られたあらましに、案内屋コンビは一層険しい顔になった。 「《見えない》……彼はそう言ったんですね」 「はい、確かに」 「澪ちゃん」 「ああ」 頷いた澪は鋭く雨生を睨んだ。 「連れていけ、そこに」 そして至った事件現場で、澪はおもむろにペットボトルを取り出し、いつもの通り満たした水に血を混ぜた。のち、何重もの円を描くようにそれを撒くと、何やら唱える。 次の瞬間、地面に浮き上がった文様に雨生は思わずと言った様子で小さく歓声をあげ、白金は眉間の皺を深くした。澪は相変わらずひどい顔をしている。 「時雨機織(シグレハタオリ)――最初に結界の内部に入った奴だけ、その模様を感知できる。ただ一人だけに行き先を示したい場合に使う、言ってみれば罠だな」 「それは……その」 「陰魄の仕業だ」 「妖だね」 「そう」 白金の言葉に澪は頷き、 「女郎蜘蛛だ」 断定する響きに迷いはない。 「じゃあ、そうか、でも」 「いちいち水かけて確かめてたらキリがない。雨生、この辺で大きな結界が張れそうなのはどこだ」 「結界、」 「外と内が遮断されていて、その境が厳格なところ。学校、神社、あとは……」 澪が言葉を続けようとした時、 「雨生さん!?」 やや甲高い声がその間に滑り込む。振り向いた三人の前に立っていたのは、やはりかなりのスピードで走ってきたのか、大きく肩を上下させている二人組。今度のはもしかしたら明神あたりよりも年下かもしれない、そんなふうに思えるほど若かった。一人は男性にしては長めの髪を一つにくくっている(色は金だ)。もう一人は黒髪の短髪だったが、頭頂部付近のひと房だけが白い。 「マコト、アカツキ!」 「よかった、雨生さん」 マコトと呼ばれた方はあからさまにほっとした表情を見せたが、それを遮るようにアカツキという青年が一歩前に出る。 「センセイが、橋を」 「何!?」 「機川(はたがわ)の橋を渡ってて、一人で」 「橋?だが川向こうは」 「はい、だから俺たち、うたかた荘に知らせようと思って、今」 「ごめん、ちょっと待って。何が何やらなんだけど」 制した白金を6つの瞳が同時に見た。 そうして語られた事情と現状に、澪はブロック塀を一つ殴った。物凄い音がしたけれども、白金は聞かなかったことにした。パラパラと落ちた破片も、だから見なかったことにした。 「OK、わかりました。マコト君は雨生さんと、アカツキ君は澪ちゃんと組んで、その橋からスタートして、町の周縁を潰すように探していこう。雨生組は西側を時計回りに、澪ちゃんたちは東側を反時計回りで、渦巻きみたいに進んで行って。俺は冬悟君たちと後から行く。俺たちが張った結界の境は、雨生さん、わかりますね?」 強面の男が大きく頷いたのを機に、彼らは無言で散開した。スーツケースが邪魔くさい、と思いながら白金は奔る。しっとりと纏わりつくような雨は、いつか一度だけ戦った蜘蛛の妖の眼差しを思わせた。 ――あれは、手強い。 三叉路が見えてきた。我らが《ホーム》はもうすぐだ。 ――しかし、なぜ? ゆかりが化野の血を引くこと、彼女が《修行》をしていること、思い当たる要素は幾つかあるが、どれも決め手には欠ける。彼女自身、恨みを買うようなたちではないから尚更だ。 ――もしかして、 《今は会えない》――そう表現した月宮の息子が関わっているのだろうか。あの家の因縁を思えば、あるいは。 忙しなく様々の可能性を検討しながらも、危なげのない足取りで白金は懐かしいアパートをひたすら目指す。もう明かりが見えてきた。一層、スピードを上げた。 (2013.06.03) モドル |