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それは、古い無声映画を見ている時の感覚に似ていた。

時折ノイズが走る画面。白っぽく霞むその風景は、けれど、全体に褪せてはいるもののたしかに色彩を備えていた。空の水色、森の碧(あお)。
鬱蒼と茂る木々を周りに巡らせ、満々と水を湛えた大きな湖が視界の半分以上を占めている。その表面は澄み切っているのに、奥が覗き込めないのは一体どうした理屈だろう。とまれ、時折風が水面と下生えを揺らす他、何者も動くことのない静まり返ったその場所に、佇む一人の女性(ひと)がいる。
踝まで伸びた長い長い黒髪。その上に白く可憐なヴェールを被り、纏う着物は対照的に目の覚めるような真紅だ。大きく開いた胸元、右の乳房に鮮やかな牡丹の刺青が見える。
徐々に視線を上に移すと、白く華奢な頸と美しい卵型の顔が目に入った。こめかみから生えた二本の角はスラリとしなやかで、般若の面を彷彿とさせる。また濡れたように光る唇といい、濃く長い睫毛といい、どちらかといえば派手な顔立ちと言える彼女は、しかし童女のようにあどけない表情で笑うので、それらの要素にも関わらず、与える印象は極めて柔らかかった。年の頃はゆかりより一回りか、もう少し上か。形の良い眉の下、バランス良く配された半月型の大きな瞳が猫のように細くなり、唇の端に隠しきれない喜びが浮かんだ。喜び――親しみ、か。
ゆかりはそれをあたたかな気持ちで眺めている。春の野に広がるひだまりのような、あるいは夕暮れに灯る家の明かりのような、そんな色の付いた感情。例えば兄妹というものがいたならば、こんな気持ちになることもあるのだろうか。慈しみ。愛情。ほんの少しの心配。そして――
彼女が何か言った。口を尖らせてはいるが、目は笑っている。それに応えて自分も何か言ったらしい。思わず、と言った様子で彼女が噴き出し、そのまましばらく笑った後、小さな拳がゆかりの厚い胸板を乱暴に小突いた。二度、三度と膚を打つそれをゆかりは大きな掌でもって掴まえようとするが、手を伸ばそうとするとスルリと逃げられてしまう。そのまま彼女は後ろを向き――
ゴオン、という地響きに似た音にゆかりはビクリと身を縮めた。
郷愁に満ちた夢の余韻は一瞬にして遠ざかり、代わりに真っ黒く塗りつぶされた視界に、叫び出したい衝動をこらえる。事態を把握すべく、限界まで目を見開いた。なのにそこに映るのは、どこまでも続く地獄のような闇。
横たわっている冷たい床はひどく埃っぽかった。だるい手足を無理やり動かし、体を起こそうと試みる。
《地響き》は、どうやらゆかりが倒れている場所からそう遠くないところで何か重い物が落ちたためのようで、反響がまだわんわんと耳の奥で木霊していた。身体の奥からこみ上げる原初的な恐怖。
「――ッ」
『無様だな』
滑り込んだ声は、どこから響いてくるのかよくわからなかった。しかし、それより何より声と同時にボワリと浮かび上がったまるい灯に、ゆかりの意識は釘付けになる。光源は3つ、いずれもゆかりからは少し離れたところにフワフワと浮いている。青白いそれは、過去の絵師たちが繰り返し描いたある形にそっくりだった。いわゆる《火の玉》。あるいは《鬼火》。
『妙なことをよく知っておる人間だわ』
声は若干ハスキーだった。ゆかりよりは一回り、あるいはもう少し年上の女性のもののように思えた。
そして、その正体など問うまでもない。
『我が名は白糸』
名乗った声は静かだった。名乗りという行為について回る、誇らしげな色など欠片もなかった。
『お主は《化野ゆかり》じゃな』
ゆかりはただ頷いた。どういうわけか、喉が潰れたようになっていて声が出ない。
白糸は納得したような息を吐いた。そうしてすぐに言葉を継ぐ。
『先だっては、儂(わし)の子蜘蛛たちをよう可愛がってくれた』
顔を歪めたのがわかったのか、白糸は低く嗤う。
『よもやお主程度の者にやられるとは思わなんだ。あれは一応、150年ばかり儂に仕えた自慢の僕(しもべ)ぞ』
「――ッ」
声の底に潜む冷え冷えとした怒りに身が竦む。白糸はすぐに笑いやめた。
『恐いか』
「――ッ、」
『そうか』
シャラリ、と涼しげな音が鳴った。それは随分近くからしたので、ゆかりは忙しなく顔を左右に振って相対している女性の姿を探す。指先に何か絡みついているようなかすかな感覚は、この際、無視する。首を曲げた時、項に感じた鋭い痛みもだ。
そうしてゆかりが得た結論――今、己がいるのはどこかの《室内》のようだということ。
しかし《部屋》とは言い難かった。そう表現してしまうには、あまりにそこは広かった。
ゆかりがガクに肩車されても届かなさそうな高い高い天井。明り取りの窓から僅かに光が差し込んでいる(今日の月齢はいかほどか、ゆかりはすぐには思い出せない)が、辺りを照らすには到底足りない。
最前まで頬を押し付ける羽目に陥っていた床は、土の匂いがした。実際、肌に違和感があったので固めた拳でゴシゴシと拭うと、やはり手の甲に何かが付着したような感触があった。たぶん、ここに敷かれているものは一般的な床材とはほど遠いもの、土足で歩き回るにふさわしい材質の何かだろう。
周りに何があるのかは相変わらず薄ぼんやりとしか見えなかったが、その中でも一際目を惹いたのは山と積まれたタイヤだ。
――自動車整備工場?
屋根があり、囲いがあり、けれど外との境界が曖昧なその施設。大学の夏休みにゼミ合宿と称して赴いたとある田舎町で見かけたそれを、ゆかりは咄嗟に思い浮かべる。あの時見たのは廃工場で、茫茫と生えた雑草が午後の日に晒されている光景がどこか物悲しかったが。
――ここは、
タイヤは朽ちているように見えた。その他、地べたに転がる様々の物――平べったく大きな金属板やスパナ、後はゆかりが名も知らぬ工具たち――も、既に道具としての命を無くしたかのようにしんとしていた。
『最早使われてはおらぬようだな』
声はするのに姿が見えない。歯噛みしながらゆかりはようよう立ち上がる。
『利用するだけ利用して放置とは、人間という生き物は誠に勝手な、』
「だれ」
白糸は黙った。ややあって、驚いたように口を開く。
『そなた、相当の精神力の持ち主な。口が利けるか』
「……なた、だれ」
『我が名は白糸。……という答えでは満足せぬか』
頷いた。精一杯に見つめる薄闇の向こう、何かが動く気配はない。
『妖(あやかし)・女郎蜘蛛。この世に生まれ落ちてから、もう500年ほどになるか。かつてはあちこち彷徨ったものじゃが、何しろ人を喰らうものでな、落ち着くまでにはだいぶかかった』
懐かしむような、それでいて少しも楽しそうでない口調にゆかりの腹の底が冷える。さらりと語られた出自の中には、聞き捨てならないものが混じっている。
『それでもまあ、儂も年を取ったし、どうしても人でなければいけないというわけでもないしな。流れ流れてたどり着いたとある寺の裏手にある滝で、永い時間(とき)を過ごしてきた』
昔語りの意図がゆかりには読めない。
『しかしそこも追われた』
そして言葉が途切れたので、ゆかりは振り絞るように声を出す。
「なん……で」
『古の《約束》を破ったからじゃな』
「やく、そく」
『人を喰らわぬという約束』
「ど……して」
『別の約束をしておったからじゃ』
すっと体が緊張した。理由はわからない。
「べつって」
『《お前が退治されるときは、弔いくらいしてやる》――そう言った』
声の温度が一段下がった。
『化野ゆかり。そなた、儂の友を幾つに分けた?』
何を言っているのかわからなかった。

***

『何じゃその顔』
呆れたように鼻を鳴らす白糸に対し、ゆかりは何もすることができない。かろうじて言葉を唇から押し出すことには成功した。
「と、も?」
『鳩が豆鉄砲食らったような顔をするな。……《龍神》と呼ばれていた頃のことしか、儂は知らぬ。そう、200年ほど前のことか。所詮はみじかい付き合いだった』
聞き覚えなど勿論なかった。
『ないだろうよ。あれはもう、神ではなくなったそうだから』
「……どう、いう」
『銀の髪と碧(みどり)の鱗を持つ、水の神の成れの果て。人間に崇め奉られたのはほんの一時、徐々に弱って消えてゆくならまだしも、あれに用意された運命は……そなたと対峙したときはもう、正気すら残っていなかったであろう。違うか?』
「……しら、ない」
心臓が一つ、大きく鳴った。
『しらばっくれるな!!』
先ほど響いた音よりも余程大きく、頭の内側でわんわんと共鳴するそれにゆかりは耳を塞いでうずくまる。けれど声は容赦しない。
『《化野》の血を引くそなたがあれを壊したのであろう!!』
「……し、」
『つまらぬ言い逃れはよせ、みっともない!!』
「そん……あな、たは、なぜ」
途切れ途切れの疑問に、妖は感情を爆発させる。
『そなたの魂がよい証拠じゃ!』
「え、」
『一目見てわかった。いや、見る前からわかっていた。あれの魂、かつて神と呼ばれて崇められたアイツの瑞々しい魂。その欠片が白く光っておる。そなたの身体の中心で』
「……かけ、」
『今一度問う。儂の大切な友人を幾つに刻み、何処に封じた。答えよ』
一言一言、区切るように発せられたその問いに答えられるわけがなかった。心当たりが全くない。
沈黙を貫くゆかりに白糸は太くため息を吐いた。
『あの男と、あの坊主と、3つだけということはなかろう。少なすぎる』
どうしてだろう。その言葉を認識した瞬間、ゆかりの全身に鳥肌が立った。
尚も黙り込むゆかりに何を思ったか、白糸はブツブツと独り言を続けている。
『因果なものよ。アイツを内に秘めた男が絳を討ち、また紅(くれない)を失うきっかけとなったのもあれを身に封じ込めたる坊主……つくづく奴は儂の計画を狂わせる、全くもってはた迷惑な――』
「だ、れ」
『は?』
先ほどよりも強い語調に、白糸は不審そうな声を向けた。どうしてか少しだけ身体が動かせるようになったので、ゆかりは再び立ち上がって前を睨む。
「ぼうず、って、だれ」
『……ああ』
敵の頭領はニヤリと笑ったようだった。
『そなたの名前を最期まで呼んでいたな』
「さ、」
『術にかけるのは簡単だった。簡単すぎた。修行中が聞いて呆れる、別れた女のことしか頭にないタダの若造。優顕(ゆうけん)も甥可愛さに奴の才能を見誤ったか』
鳩尾の奥からどんどんと、黒雲に似た不吉な予感が膨れ上がる。
修行中。若造。才能。寺。そして、坊主――僧侶。
出家。
俗世を、捨てること。
『恋人だったか?』
白糸がペロリと唇の端を舐める映像が、目に浮かぶようだった。彼女の顔など知らないはずなのに。
『そう、あの数珠はなかなか強力な呪物だったからな、重宝しておるよ』
ゆかりの一番近くに漂っていた鬼火がすっと遠のいた。誘われるように歩を進めれば、やがてぼんやり浮かび上がるのは赤い珠と白い珠が互い違いに繋がれた、小ぶりのブレスレット。

ゆかりの初恋の人が肌身離さず付けていたそれ。

喉の奥から嵐が突き上げた、と思ったら、それはゆかりの咆哮だった。
耳を劈く渾身の悲鳴の只中で、守り刀を引き抜き、振り下ろす。ブレスレットから僅かに離れた地面にそれは突き刺さったが、当然のこと、《彼女》を害することなどできはしない。
かぶさるように、哄笑。
『やはりそうか!やはりそうか!哀れなものよ』
「きさま、よるを、よる、を」
意志とは無関係に両目から熱い水が溢れた。思い切り拭い、ゆかりは刀を正面に構える。
「でてこい!!!」
白糸は笑いを引っ込め、次いですうと息を吸った。
『無理な相談じゃ』
「ふざけるな!!!」
『大真面目じゃ。なぜなら儂は、今』
その言葉はさながら耳元で囁かれたようだったけれども、
『そなたの中にいるからな』
実際はやはり耳の内側で共鳴し、言葉尻は残響を伴ってゆっくり消えていく。
入れ替わるようにジワジワと絶望が体内を侵食するのを、ゆかりは呆然と感じている。
また白糸が嗤った。

(2013.06.10)


モドル