*** 《月光寺》――いかめしい扁額を見上げ、化野達彦は大きく息を吐いた。 午後4時。裏手に小さな山を擁するこの寺院は、夕闇の陰に今にも隠れてしまいそうだ。いわゆる《悪い》感じはしない、けれどもあまりに静かなその雰囲気に達彦はしばし茫然とする。人の気配どころか生き物の気配が全くない。ただ時折、生温い風が首すじの辺りを撫ぜては消えるだけ―― 「もし」 咄嗟に両肩を尖らせた達彦の前にいつの間にか立っていたのは、 「野寺坊……!」 「ハッハッハ、ご客人は口の悪い方ですな」 まるで熊のような体躯に不似合いな、人懐こそうな瞳と濃い髭が見る者に強い印象を残す、縦にも横にもサイズの大きな僧侶だった。思わず口にしてしまった山怪の姿とは似ても似つかない、地味だが仕立ての良さそうな法衣と袈裟を纏っている。達彦は赤面した。 「す、すみません、とんだ失礼を」 「気にせんでください。しかしまあ、物の怪と間違えられたのは初めてですわ」 丸く突き出た腹を揺すって心底愉快そうに笑う彼に、達彦はますます身を縮める。 「あの、本当に、もう」 「ああ、いや、その」 僧は大きく手を振った。 「こちらこそ申し訳ない、責めるつもりなぞなかったんですが。――化野さんですな?」 穏やかな声音に、達彦はゴクリと唾を飲む。知らず拳を握りしめた彼の変化を知ってか知らずか、僧は柔らかく目尻を下げた。 「ご連絡をいただき、ありがとうございます。こちらで貫主をしております優顕(ゆうけん)でございます。この度は、」 「このたびは、誠に」 他人の話を遮ることなど滅多にない。それでもそうせずにはおれなかった。 それでいて先を続けられない達彦の震える肩を、厚い掌がポンと叩く。 「はるばるようお越しくださった。たいしたもてなしもできませんが、まあ、中へどうぞ」 そうして踏み込んだ結界の中は、寂しい風が吹いていた。 達彦はこの空気を知っている。きっかり24年前、嫌というほど味わった《不在》の確たる存在感。 しかし先に立って歩く優顕の広い背中は凛とした気迫に満ちていて、達彦は密かに己の小ささを噛み締める。 かつて――そして今も、自分の選んだ道が正しいなんて、ただの一度も思えない。 それでもそうせずにはいられなかった、醜い衝動の原動力が、世間で何と呼ばれているのかくらいは知っている。 ――そんなもの、知らないまま生きていられたら、 「何か仰いましたかな?」 「いえ」 みじかく答え、達彦は空いてしまった距離を詰めるべく足を早めた。結局、3歩で追いついた。 *** 指先に染み入るような湯呑の温かさに、達彦はほう、とため息を零し、 「粗茶ですが」 相変わらず深く落ち着いた声を受けて大きく首を横に振った。 「そんな、美味しいです、すごく」 「いやいや、またまた」 「本当です、僕はこういうことが下手なので羨ましいです」 本心からの褒め言葉ということは、優顕にも伝わったらしい。僧は照れくさそうに破顔した。 「左様ですか」 「ええ、家を出た娘がたまに帰ってくるんですが、そうすると絶対に台所には入れさせてくれな」 思わず言葉を切った達彦の視線を、黒色の瞳が静かに捉えた。 一瞬にして空気が変わる。いや、それは達彦の側だけの問題かもしれないけれど。 「ゆかりさん、ですか」 けれども優顕の目にも言葉にも、一切の感情は見て取れない。たとえば、恨み。たとえば、怒り。たとえば、悲しみ―― 「…………御坊は、どこまで」 「ええ、そうですな」 達彦の言葉に、僧はほんの少し遠くを見るような目をした。 「……《化野》という変わった苗字を持つ娘さんが、甥のクラスメイトだったこと。彼女が、血筋ではなく《彼女自身》に憑いた強大なモノに運命を捻じ曲げられていたこと。甥が、それを《救った》こと」 太い眉が少しだけ下がった。何かを懐かしむような、そんな表情。 「甥は、ゆかりさんに心底惚れ込んでおったようですな」 次の瞬間、達彦は思い切り額を畳にこすりつけていた。清潔ではあるものの、ところどころささくれだったそれは達彦の肌に痒みとも痛みともつかない刺激を残す。 「申し訳ありません……っ!!」 突然の謝罪にも尚、壮年の僧侶は動じない。 「頭を上げてくださらんか、化野さん」 「許していただけるとは思いません、しかし、しかし」 「いや、ですから」 と、優顕はふと口を噤んだ。一秒。二秒。沈黙がただ二人の間を滑っていく。潰されそうなその重みは、しかし現れた時と同様、不意に達彦の頭の上から消える。 「赦すとか、赦さないとか、そもそもそんな問題ではありません。あれが死んだのはあれ自身のせい」 意外な言葉に達彦は思わず顔を上げる。 優顕は薄く微笑んでいた。一見しただけではわからないくらいに、幽かに。 「あの日は春分でした。移りゆく季節の境に魔物が湧く、ということは私どものような人間にとっては常識です。甥にはまだまだ自覚が足りなかった。自分が何者かということも、身の内に何を抱えているのかということも。――赦されないというなら、それはむしろ導けなかった私のほうです」 泰然とした空気を纏ったまま言葉を紡いだその声も、膝に置かれた掌も、けっして揺らぐことがない。それが逆に、彼がどれほどの感情の嵐を越えてきたのかということを伺わせた。 彼の甥――月宮依が亡くなってから、およそ半年が経つ。 と、いうことを達彦が突き止めたのは、ほんの数日前のこと。 この国の歴史の陰の部分に密かに息づく《月宮》の家系。彼らの消息を辿ることは困難を極めた。しかしそれでも達彦は、知らなければならなかった。 《お母さんは、本当は生きてるの?》 消え入りそうな声の愛娘から電話があった日のことを、今も鮮明に思い出せる。タクシーを飛ばして駆けつけた、娘の新たな住まいとそこに集う住人たちのこと。 倒壊しそうなボロアパートには正直、驚いた。屈託のない管理人に緊張を解かれ、黒髪の少女の気遣いに和み、そして、 娘の隣にポッカリ空いた縦長の《空間》を目にした時のえも言われぬ感慨と言ったら。 「……その名前を、今さら聞くことになるとは思いもよりませんでした」 唐突に始まった述懐を、優顕は黙って聞いている。 「犬塚我区。妻の妹の息子の名前。よりによって《あのこと》を全く知らない娘から、彼の、名前を」 口の中が乾く。茶はまだ熱かったが、無理やりそれを喉の奥に流し込んだ。 「5年前、担ぎ込まれた病院のベッドの上で目を覚ました時、娘がもう僕の知る娘ではないことは、何となくわかりました」 その後、自身に降りかかる《不幸》は劇的に減ったことからも、達彦は《それ》を確信した。すなわち、 「甥子さんは、娘の《呪い》を引き受けてくださった」 絞り出すような声に、優顕はつと眉根を寄せる。 「……あれは、呪いでしょうか」 思いがけない指摘に、達彦の手から湯呑が滑り落ちた。 「あチッ……!!」 刺すような痛み――熱、に悲鳴を上げると、流石の優顕も慌てたように、あたふたと立ち上がると白い台拭きを無骨な指で掴んだ。ずいと差し出されたそれには手を振って応え、達彦は自分のハンカチでジーンズの膝の辺りをトントンと叩く。幸いなことに、被害はそれほど大きくない。 「火傷は、」 「いえ、僕は大丈夫です。それより畳が」 一瞬前まで美しくたゆたっていた早緑は、もはや単なる薄黒い染みだった。ジワジワと広がるそれは原初的な単細胞生物に似ている。あるいは、何らかの隠喩に思えないこともなかった。 「……呪いではないです」 優顕が手を止めた。何かを探すようなその眼差しを、正面から受け止めた。 「少なくとも僕はそう思いたい」 「それは」 「……長い話に、なってしまいます」 僧はゆっくり頷いた。 「そして僕がお話できるのは大部分が伝え聞いたことばかりで、……だから、想像で埋めているところもかなりあります。特に、当事者の――妻の、気持ちは」 「構いません」 力強いその声に背中を押される心持ちがして、達彦は居住まいを正す。大方、周りを清め終わった優顕も背すじを伸ばして座り直した。 「先ほど、《境》とおっしゃいましたね。境界には《よくないモノ》が湧く――そんな日付は一年の内に幾つもありますが、最も恐ろしいそれは、僕は冬にあると思っています」 「事八日」 「その通り。生き物たちが息をひそめる冬は、《魔》が跋扈する季節です」 依(かれ)が娘(ゆかり)の《呪い》を奪った日付は、まさしく2月のそれだった。そして、 「始まりは25年前の12月8日。ずいぶん風の強い日でした。その前日、僕と妻が住む小さなアパートの郵便受けに、一通のハガキが届きました。差出人は、犬塚百合」 優しげな女文字に顔色をなくした妻は、まるで舞台女優のようによろけて達彦に凭れた。まだ見ぬ娘と愛する妻、二人分の重みを受け止めた達彦は、ただ足を踏ん張って立つことだけに精一杯で、 「彼女と彼女の夫との間に待望の長男が誕生したことを知らせる、それは手紙でした。僕も後で見せてもらいましたが、正直に言って、内容はほとんど覚えていません。脳裏に焼き付いたのはただ一つの単語」 流れるような筆跡の中で、そこだけくっきりと力強く刻まれた文字。 「《約束》」 あの時、倒れそうな顔色の妻に何か夫らしいことを言えていたら、運命は変わっていただろうか。 *** 空の高いところで風が鳴っている。けれど、トボトボと歩く蘭の周りはとても静かで、胸に穴の開いたような気持ちはどこまで行っても埋められそうにはなかった。いっそ何かが起きればいいのに、と辺りを見回すが、人はおろか猫の子一匹いやしない。絶望に似た倦怠がジワジワと身の内を蝕むのを感じたけれども、だいぶ突き出てきた腹のためにしゃがみこむこともできず、ただひっそりため息をついた。腕時計を忘れてしまったので正確な時刻はわからなかったが、太陽は今にも地平線の向こうに没しようとしている。今日は夫の帰りが遅いとはいえ妊婦の身、もうそろそろ家路に付かなければいけないのはわかっていた。それでも足は鉛のように重く、また蘭は細い路地を無意味に曲がってしまう。 ポシェットには財布と鍵と、それから昨日届いた葉書が入っていた。1グラムもないその紙切れが、今の蘭の気持ちを沈ませる最大の原因だった。 「やくそく」 呟いた言葉は誰にも聞かれずに消えた。だから乗せた想いの色も、誰にも見られなかったはずだ。 それはもうとっくに色褪せたはずだった。 人間として、女性として、どうしようもなく出来損ないの自分、その全てを受け止めてくれた夫に抱きしめられたあの日から、さながら開ききった花びらが剥がれ落ちるように、形を失っていったはずだった。 それなのに、どうして今、こんなに心が波立つのだろう。 「……っ」 視界が水でぼやけてしまうのだろう。 わからない。何一つ、わからない。 自分の胎の中にいる娘と大切な夫。二人のためだけに生きていこうと決めていたのに。 たまらず嗚咽を漏らした蘭は、 「なあ」 突然、背後から放たれた声にビクリと身を竦ませる。 恐る恐る振り向いて、 まず目に入ったのは目を射るような白――いや、銀(しろがね)。 それは大柄な男性だった。髪も、肌も、纏う着物も、淡く発光しているかのように美しく、 「そなた、私が見えるか」 けれど、ちょうどその腹の辺りにぐるぐると巻き付く冗談のように太い鎖は、 黒と赤が混ざったような、吐き気を催す色をしていたから、 「そうか。見えるか」 涼しげにわらうその口元を、なぜだか蘭は直視することができなかった。 *** 「あなた、……何?」 平安時代の女性と見紛うほどの長い髪。銀色に輝くそれを揺らして、端正な顔の男性は両膝をついた姿勢のまま、満足げに目を細めた。 「いい質問だ。さすがは《化野》」 「え、」 思わず顔を覗き込んでしまったが、こんな男に見覚えはない。社会人とは思えないような髪型(そもそも日本人なのだろうか?)、よく見るとあちこちほつれ、穴の開いてしまっている着物、そしてあたかも罪人のように身体を縛める無骨な鎖。その先を辿ると、彼から3メートルほど離れたところで大きな石碑のようなものが暗がりにぼんやりと輪郭を浮かび上がらせているのが見えた。鎖はどうやらその根元に埋め込まれているようだ。 いつの間にか空き地のようなところに迷い込んでいたことに、そこで蘭はようやく気づく。こちらも男性同様、全く未知の場所だった。一見、公園のように見えなくもないぽっかりと開けた広場だが、遊具の類は何もなく、ところどころに申し訳程度に生えている草が侘しさを一層高めている。何かごちゃごちゃと文字のようなものが彫られているらしい石碑の背後には雑木林が続いていて、さらに奥の方はよく見えなかった。上空ではまだ風が唸っているのに、木々はそよとも動かない。 「あなた、夫をご存知なの」 震える声は隠せなかった。男は鷹揚に笑った。 「成程、夫か。いやそれで合点がいった、その血は胎の子のものか。どうりで気配が薄いわけだ」 蘭は小さく喉を鳴らした。荒くなりそうな息を懸命に鎮める。 「質問に、答えて」 男は困ったふうにでもなく首をかしげてみせ、 「そうさな、直接は知らんな。しかしまあ、そんなことは良いだろう」 姿勢を変えずに躙るように身を乗り出した。それでチラリと見えたのだが、どうやら足にも枷のようなものが嵌められているようだ。あまりに異常な状況に、蘭は数歩あとずさる。 「そう怖がるでない。私は、そう、龍だよ」 頭のおかしな人間だ。そう思った。踵を返そうとした蘭の足を止めたのは、 「だから人間ではないと言っておろう、龍だ龍、龍神。わかるか?かーみーさーま」 当の本人の言葉だった。ふざけたように伸ばした語尾が、耳の奥で谺する。 「しかし言うにことかいて頭がおかしいとは、失礼千万な女だな」 どうにか踏みとどまった蘭は、懸命に声を絞り出す。 「わた……し、いま」 「ん?ああ、口に出してはおらんかったぞ。何、こんなことで信じてくれるのか?」 美しく唇の両端を上げたその様を、今度は魅入られたように見つめていた。対照的に身体の方は、金縛りに遭ったように動けない。 「まあよい、化野の妻。そなた、私が見えるのならば一つ、取引に応じないか」 「とり……ひき?」 ああ、口は動くのだ、と思いながらも、それすら何かに操られているように感じていた。 意識が白く霞みかける。理性の箍が緩み、押し込めていた本能が溢れ出す。 「そう、取引だ。この鎖を断ち切ってくれたら、そなたの願い、何でも一つ叶えてやろう」 「え」 「悪い話ではなかろう?」 「や」 「無理ではないよ。私が見えるそなたなら、簡単なことだ」 爛々と光る両の瞳から、目をそらすことができない。畳み掛けるように男――《龍神》は言った、 その言葉が止めだった。 「愛する者がいるのだろう」 最早言葉をなくした蘭の背後を、彼は見透かすようにする。 「つまらん倫理なぞ捨ててしまえ」 一際鋭く風が鳴った。 「そなたが《化野》と縁を結んだのも、偶然ではなかろうな。あれは《それ》がゆるされた家系だ」 もう蘭には、目の前の男しか見えていない。 「大丈夫だ、罪などではないよ」 その言葉は天啓だった。 「愛しておるのだろう?そなた、その少女――妹を」 (2013.06.17) モドル |