***

思い出すのは、遠い昔に見た笑顔。
梅雨の合間にふと訪れた奇跡のような晴天の午後、まだ幼い蘭は妹と差し向かいで花環を編んでいた。時折草原を吹き渡る風は香り高く、空はどこまでも青い。少し前から手を止めて、ゆったり流れる雲に見とれていた蘭は、妹の歓声で我に返る。
――蘭ちゃん、四つ葉!
きちんと爪を切りそろえた指先でもって彼女が誇らしげに差し出したのは、まごう事ない幸運のしるし。
――ねえ、蘭ちゃんってば、
促されるようにして右手を出す。ペタリ、と指が触れてすぐに離れる。子供特有の熱く、少し湿った手。
満足げに微笑む妹の顔を一瞬見返して、蘭はすぐにそれの使い途を思いつく。素早く指を動かせば、手の中の束はまた僅かに長さを増し――
――……おねえちゃん、すごーい!
完成した花冠をそっと小さな頭に載せてやれば、妹は目を丸くして手を叩いた。のち、体当たりするように抱きついてくるので、折角美しかったその光景を蘭が見ることができたのは、結局ほんの数秒しかなかった。きっちり編まれた黒髪のてっぺんから滑り落ちた円い花束を目の端で捉えながら、蘭は興奮する妹をなだめるのに難儀する。
幸福だった。ただただ幸福だった。
蘭の《想い》が編みこまれた円環は、土で汚れてしまっていたのに。
四つ葉のクローバーの花言葉――《幸福》。しかし、自然界に於いてはおよそ一万分の一の確率でしか存在しないというこの稀少な植物が、もう一つの《意味》を象徴していることはあまり知られていない。実際、蘭がそれを知ったのは家を出た後のことで、この遠い記憶が心に棲みつくようになるのもそれからのことになる。……もしも蘭が、実の妹に恋をするだなんて運命を辿ることがなかったならば、薄暗いバーのカウンター越しに聞いたその花言葉のことなんて、すぐに忘れてしまっただろう。
――四つ葉のクローバーにはね、《幸福》の他にもう一つ意味があるんだぜ。
もう顔も覚えていないその酔客は、だからのっぺらぼうのままで繰り返し蘭の夢に現れ続ける。
――へえ、何なんですか。
――蘭ちゃん、知りたい?
――はい。
――珍しいな、蘭ちゃんが俺の話に興味持ってくれるなんて。
そこで別の常連客が、体ごと会話に割り込むようにする。
――勿体ぶるなよ、馬鹿。
――へいへい。……そう、四つ葉のクローバーの知られざるもう一つの花言葉。それはね、
そこで夢の中ののっぺらぼうはいつも、蘭の幼馴染の顔になるのだ。
――《私のものになって》。……どうだい、ロマンチックだろ?

***

「愛しておるのだろう?そなた、その少女――妹を」
強い耳鳴りが蘭を襲い、またたく間に視界が真っ白に塗りつぶされる。この光は一体どこから来るものか、繋がらない思考のまま、蘭はぼんやり訝しむ。そう、強烈な心象風景は、なぜかその一文字に置き換わった。神々しいまでの《ひかり》――
現実と幻想の狭間で蘭は必死に目を凝らすが、その先にあるものはただの《無》だった。崩れそうになる身体を支え、ようよう膝をついて息を吐いた。ということはやはり、これは希望ではなく断罪の――
「おい、大丈夫か?」
ハッと目を瞬かせれば、先ほどよりも幾分か近くに整った顔があった。削げた頬の向こうには相変わらずしんとしたままの深い木立。辺りはもうほとんど昏くなっていたけれど、男の表情ははっきりわかった。意外なことに――彼は、蘭を心配しているように見えた。
息を吸って、吐いた。そうして真っ直ぐ、澄んだ瞳を見つめ返す。
問いたいことはたくさんあった。しかしどれもこの場には相応しくないように感じて、蘭は口を噤んだまま、必死で言うべき言葉を探す。黙する蘭を自称《龍神》は、眉をひそめたまま見守っている。
と、突然、正面の藪が揺れてバサバサと強い羽ばたきの音が響いた。黒よりもなお濃い暗闇色が二、三、そこから飛び出したかと思うと瞬く間に空の向こうに消える。その後はまた静寂。
零れおちた言葉は、たったの四文字だった。
「……できるの?」
ふっと肩の力を抜いた男――《龍神》は満足げに頷いた。対する蘭は拳を握り、彼の方へと足を踏み出す。一歩、二歩。それでもう、蘭は彼の鎖に触れられる位置にいた。
「私の、願いは」
「うん」
震えたのは最初の一文字だけだった。
「《私の娘と妹の息子が、互いに唯一無二の存在になりますように》」
《龍神》は――ポカンと口を開けた。
今の今までその身を覆っていた鋭いオーラが霧散する。あれほど禍々しく見えた鎖さえ、ただの薄汚れた飾りのように思えてしまうほど。あまりの雰囲気の変わりように、蘭は状況も忘れて噴出しかけ、咳払いで誤魔化した。そんな彼女の様子をおかしいと思う余裕もないのか、子供のように目を丸くしたまま、《龍神》は、
「……そんなことでよいのか?」
まだまだ十分に気の抜けた声で問うた。再び笑いそうになってしまうのを、蘭はやっとのことでこらえ、
「はい」
キッパリと答えた。
迷いは、なかった。
「……それは」
何かを言いかけた《龍神》は、ふと口を閉じると思案げに首を傾げながら、
「……私の《力》を信じていないのか」
いかにも情けなさそうな表情で呟いた。蘭は慌てて首を振る。
「違うんです、違うんです、あの」
「私は結構、やるときはやる男だぞ」
「そういう問題ではなくて」
ふう、とため息をつき、あらためて群青色の瞳を見つめた。吸い込まれそうに深い、水底にたゆたうような蒼。
「妹は、夫を愛しています。そして彼も、妹を愛しています。彼女は今、幸せなんです。そして、これが一番大事なことですが」
胸の奥底を抉るナイフを、蘭は自らの手に握り締める。言葉の刃を使うなら、せめて自分の手で止めを指したかった。
「彼女は私の気持ちを知りません。想像したことすらないでしょう。彼女が私に求めるものはただ一つ、《家族》としての絆。――だったら」
《想い》を宿した熱い心臓から血が流れるのを、蘭は今、確かに感じている。
それでも、彼女の胎内にはもう、新たな命(おもい)が息づいていたから。
「一度は断ち切ったこの縁(えにし)を、私はもう一度結びたい」
右手を膨らんだ腹部に当てた。左手は腰骨の辺りに触れるポシェットに。
「そして」
応えるように、まだ見ぬ娘の足が彼女の腹を中から蹴る。トン、トン、トン。少し間を置いて、もう一度だけ、トン、と。その優しい振動が、蘭に勇気を与えてくれる。
「私には叶えられなかった希いに、私の子供が届くのならば――それは、何者にも代え難い喜びです」
そこで蘭は言葉を切った。
急に心臓の鼓動が意識される。それは最早、胸の真ん中ではなくて耳の内側で鳴っていた。ザッ、ザッ、ザッ、と、雪の中を兵士が行軍するのに似たその音。
託宣を待つ人間を見つめていた《神》は、やがて長く長く息を吐いた。
「……ヒトという生き物は本当によくわからん」
呆れたような声だったが、険はない。
「それほどまでに大事か、《子供》とやらは」
蘭は小首を傾げてみせる。自然と口元に笑みが浮かんだ。
「まだ、母親になっていないのでわかりませんが」
「なっているではないか」
「この手で世話をしていませんもの。顔を見るまでは、実感が湧きません」
《神》は片眉を上げて、笑った。何も言わなかった。
だから蘭は、それが今だということがわかった。
両手を身体から離し、ソロソロと伸ばす。ザラザラした鎖の錆びを指先に感じた瞬間、火花のような熱が全身を奔った。
目をつぶったのは一瞬。
縛めを解かれた《神》は、ゆっくり立ち上がる。
人形(ひとがた)でありながら、はっきり鱗の浮き出た腕と脚。
長い爪はいかにも鋭く、色はベルベットのように深い真紅だ。
何より彼の纏う空気が、否、辺りを満たす空気が一変していて、
「いやはや、永かった」
蘭は、
「さすが、私の見込んだ女だな」
自分のしたことが果たして正しかったものか、
「さて、約束だ」
その判断をできないまま、
「怯えるな。痛みはないから」
骨ばった指が己の腹に近づくのを、息を飲んだまま、ただ見ている。
その指先は柔らかなワンピースの布地に触れ、そのまま音もなく蘭の中にめり込んで――

***

「《印をつけた》――そう、彼は言ったそうです」
「しるし」
「はい。そして、動けないままの妻を覗き込むとニッコリ笑って――それが、人の形をした《彼》を見た最後だったと」

***

夫はまだ帰らない。鼓膜に貼り付く秒針の音から逃れようと蘭は耳を塞いでみるが、勿論のこと効果はなかった。先に眠ろうと押入れから引っ張り出した掛け布団の上にペタリと座り込んだまま、彼女はもう長いこと動けずにいる。
目を閉じれば浮かんでくるのはほんの数時間前の光景。夢のような、あの一時。
命を内包する腹部からスッと指を引き抜いた《神》は、やはり瞬きをする間にかたちを変えた。名乗りの通りの《龍》の姿、あっという間にその頭は雲を突き抜け、蘭がその場にへたりこんだ時には、もう尾の先すら見えなかった。
それでもあの目を忘れられない。
彼が彼女によって解き放たれる直前、蘭が美しいと感じた蒼い理性の輝きなどどこにもなかった。
代わりにそこに宿ったのは、あの鎖の色に似た黒ずんだ赤。
それは、憎しみの、色。
不意に悪寒が突き上げて、蘭は己の肩を両手で抱く。
「……わたしは」
「とんでもないことをしてくれたな」

弾かれるように振り向いた。
顔を少しだけ下向きにしている、小柄な男が立っていた。

白いシャツの上に濃色のベストを羽織り、腕にアームバンドを嵌めている。そんな出で立ちのせいだろう、蘭の脳裏をまずよぎったのは《執事》という単語だった。しかし、蘭と達彦が住まう四畳半のアパートに出入りするそんな職業の人間などいるわけがない。
男は俯いていた顔を上げた。左眉の上に大きな傷跡がある。
「……っ」
「あなた、妊婦ですか」
咄嗟に腹をかばうように身を縮めると、男は顔をしかめて大きく手を振った。
「いえいえ、そうではありません。道理で、と思っただけです。孕み女は霊的に特殊な時期にある」
「……あ、」
男は肩を竦めた。
「壊神幽響(エガミ・ゆうこう)」
「え」
「名前です。ま、忘れてもらって構いません。どうせいずれ捨てる名」
そう言って、壊神と名乗った男は顎に手を当てる。
「あなたが厄介なことをしてくれたお陰で、今日は散々な日になりました」
片眉を上げるその仕草で、蘭の思考回路は一気に繋がる。
「……龍、の」
「ええ。全く、自分を退治した案内屋の弟子の弟子まで滅ぼそうとは、あの陰魄も執念深いというか何というか……が、あなたもそれなりの報いを受けましたか」
ザッ、と、
体内の血が一気に冷める感じを蘭は味わう。壊神は唇をへの字に曲げた。
「浅はかでしたね」
「……なに、が」
「邪神に願掛けして、《幸せ》になれるとでも?」
「じゃ、しん」
「何を願ったかわかりませんが。……そうですね、例えば、あなたが《世界一、金持ちになりたい》と願ったとします。そうしたら、あなたより金持ちな奴らが、世界中、一斉にみんな死ぬ。アイツらのやり方など所詮そんなもの」
蘭の顔をまじまじと見て、壊神は大きくため息をつき、
「あなたの子」
長い指で真っ直ぐ蘭の腹を指した。
「魂が奇形になっています。……噛み合う形のたった一人しか、この子の傍には残らない」
瘧にかかったように震えだした蘭に冷たい一瞥をくれ、
「でしょう」
流れるように優雅な仕草で背を向けると、

そこで目が覚めた。

まず目に入ったのは古い砂壁の暗緑色、次いで黄ばんだ襖の白。先に眠ろうと押入れから引っ張り出した掛け布団の上にペタリと座り込んだ姿勢のまま、蘭は茫然とする。今の光景は何だ、今登場した人物は誰だ、今、
今、言われたことは。
カチャリとドアノブが回る音がし、蘭は大袈裟でなく跳ね上がる。目を見開いて睨んだ先に立っているのは、
「蘭さん……?」
アルバイトから帰宅した夫だった。ぼさついた髪、よれたジーンズ。平和な日常そのもののその姿に、蘭の涙腺は急速に緩む。
「蘭さ……蘭、どうしたの、どこか痛いの」
あたふたとしながらも、やがてしっかりと肩を抱く温かな掌を全身で感じながら、彼女は大きく首を横に振った。
「わたし、」
「うん」
「わたしね」
「うん」
「この子を」
――呪ってしまったかも、しれない。

***

「当時、そして僕に関しては今も、ですが……僕たちの住んでいた町には雨乞いの祭りとそれにまつわる龍神の伝説がありました」
俄かに顔を曇らせた優顕に、達彦は小さく頷いて見せる。
「江戸時代の終わり頃に村がひどい旱魃に見舞われた際、土地の守り神たる龍神に祈って雨を降らせてもらったという実にありふれた昔話です。ただ、祭りのやり方が少しだけ変わっていて……巨大な龍のハリボテを作って町内を練り歩き、ゴールの神社で祈りを捧げる。そこまではいいんですが」
「聞いたことがあります」
重い口調の僧は、これから達彦が話そうとしていることをわかっているようだった。表情の暗さがそれを如実に示している。けれど、ここで話をやめるわけにもいかない。
「祈祷の後、そのハリボテを池に沈めて」
「参加者全員で壊す」
「その通りです。……有名ですか?」
「四年に一度、大祭として行うあの行事でしょう。あれは」
優顕は一度言葉を切り、苦いものを飲み下したかのような表情になった。
「典型的な《封印の再生》ですね。……しかし、ならば」
「はい。……何といっても、200年近く前の話です。今となっては何があったのか知るすべはありませんが……少なくとも、封印されるべき神は、もう」
「ああ」
呻いた僧は片手で顔を覆った。やがて静かにその手を下ろすと、一度、深呼吸をした。
「いえ、すみません。おそらく、それが理由ではありましょう。しかし、幾つか解せぬこともあります」
「と、言いますと」
優顕は首をひねり、
「どこから話したものでしょうか」
と言うと、すっかり冷めた茶を一口啜った。
「この寺の裏手には滝があります。その傍らに小さな祠があり、表向きは不動明王を祀っていることになっていますが、本当は、そこに棲んでいるのは白糸という名の妖(あやかし)――蜘蛛の、妖怪でした」
僧は達彦と相対したまま、首だけを障子の方に向けた。
「あれがこの土地に根付いたのは、そう、ちょうどそちらの龍神の伝説が生まれたころになりましょうか。当時の貫主とどんなやり取りが交わされたものか……あれは《人を喰わない》ことを条件に祠を住処にするようになったようです」
釣られて達彦も優顕が見ている方に顔を向ける。障子には穴一つ開いていない。
「それが破られたのが、今年の春分でした」
達彦の頬の筋肉が痙攣した。
優顕の様子は変わらない。
「なぜ約束を破ったのだ、と問う我らに白糸はこう答えました――《もっと古い約束を守るべき時が来た》、そして《儂の友人を幾つに分けたのか》と」
「……友人」
「伝説に、蜘蛛は」
「……いえ」
短い返答に、優顕は眉間の皺を深くする。
「御坊、」
「化野さん」
消え入りそうな達彦の言葉は、太い声にかき消された。
「ゆかりさんは、今」
「えっ、はあ、実は」
案内屋という職掌を、僧は承知していたようだった。達彦の説明を聞き終えると、渋面は少しだけ和らぐ。
「ならば心配はないかもしれませんが……おそらく、白糸は必ずゆかりさんの身辺に現れるでしょう」
「それは、」
優顕は深く頭を垂れた。
「誠に申し訳なく、私自身も悔しいことでありますが、あの時討ち取れたのは白糸に従う子蜘蛛一匹。白糸の奴めが、ゆかりさんの魂にかけられた《術》を《友人》――恐らくは、その《龍神》――の欠片だと勘違いしているとするならば」
無意識の内に立ち上がっていた。
開けた障子の向こう側はもうすっかり真っ暗だ。秋の陽は釣瓶落とし。そんなのどかな単語を浮かべながら、達彦は熱に浮かされたように歩きだした。背後で優顕が慌てたように何かを言っているが、足を止めることはできなかった。

ゆかりがうたかた荘の近くの路地で、ガクに化けた女郎蜘蛛に拐されていたのは、正にその時刻の頃だったのだと達彦が知るには、まだ丸一日ほど時間が必要だった。


(2013.06.24)


モドル