夜の闇を背景にくろぐろと聳える建物は、まるで特火点(トーチカ)だった。
遠い昔、かび臭い視聴覚室で見させられた古い映画をガクは思い出す。目ばかりがギョロギョロと光る外国の兵士が幾人も出てきたあの映画。話の内容はすっかり忘れてしまったが、今、眼前に広がる光景はどこか記憶の中の架空の戦場に似ている気がして、ふるりと肩が震えた。無論、それは恐怖ではない。
――空気が、死んでいる。
今度はそれより少し近い《昔》、白髪の案内屋と共に闘った夜の思い出がガクの物思いを塗り替える。
それはきっと、荒れきった廃寺の重い空気と、今ここに漂う雰囲気との奇妙な共通点のせいだろう。
匂いでもなく、具体的な肌触りでもない、ただ何とも言えず身体に纏わりつくような目に見えぬ淀みは、その中心に立つ廃工場に近づくにつれてますます濃く、強くなった。
――陰魄のせいか。それとも、土地自体が穢れていたか。
町の外れにあるこの工場が操業を停止したのは、ごく最近だったはずだ。しかし壁の塗装はところどころ剥げ落ち、明り取りらしい窓のガラスが無残に割られた現状を見るかぎりでは、人が出入りをしなくなってから十数年が経つのだと言われてもおかしくないくらいだった。その位にそこは朽ちていた、何もかもが。周囲に丈高く繁る草々さえも、太陽のない今はモノクロームに染められるから尚更だ。
もしもこの状況が元々のものだったならば、陰魄にとってこれほど都合の良い隠れ場所もなかったろう。ならば逆になぜ明神たちが発見できなかったのかという疑問が残るが、今はそこを責めても仕方がない。
絵に書いたような廃墟の入口めがけて光の線は真っ直ぐに伸びている。さながら自ら罠にかかった獲物を嘲笑うかのような白い輝き。
――この中に。
思っただけで魂が燃えるようだった。
霧雨はいつの間にかやんでいた。だから、火の怒りを宿すガクを止めるものはもう何もない。
固く閉ざされた鉄の扉を前に、死者は木槌を振りかぶる。

穴はあっけなく開いた。

青白い炎が手前に1つ、奥に2つ、広い室内に大きな三角形を描くように灯っている。照明器具の類とは明らかに違う、ガクが弟分や恋敵と幾度も相対してきた魂の――堕ちた魂の放つ色だ。
明かりが照らす範囲は決して広くなく、薄められた闇にガクは目を凝らす。徐々に慣れてきた視界に黒い輪郭で浮かび上がるのは山と積まれたタイヤ、何に使うのかよくわからない平べったい板状のもの、細かな工具――
不意に鬼火とは別の光がガクの視界を斜めに切り裂く。
咄嗟に見上げた高い窓は、淡く発光しているようだった。ガクが必死に辿った糸の色に似た、それは天然自然の月光の白。今夜は満月ではなかったはずだが、つい先ほどまで暗雲に覆われていた空に慣れた目には、随分と明るく感じられた。
――ああ、雲が、
その時何かが視界の隅をかすり、ガクは勢いよく顔を正面に戻す。

柔らかなスポットライトの中心で俯せに倒れているのは、誰よりも愛しい黒髪の女性。

呼びかけが、きちんと言葉になったかはわからなかった。
ただ走り、跪き、抱き起こす。ぐったりとした彼女に意識はどうやらない。小さな頭を支え、ただ叫んだ。叫びながら華奢な身体を揺する。それしか思いつかなかった。
ややあって、血の気のない唇の隙間からかすかな呻き声が漏れ、ガクは腕を動かすのをピタリと止める。息の詰まるような沈黙の後、ゆっくりと瞼が押し上げられた。ぼんやりとした瞳は、ガクの視線にぶつかると徐々にではあるが焦点を結んだ。
「ガクさん……?」
「ゆかり……ゆかり、」
零れるのは名前しかなかった。壊れたロボットのように己の名前を繰り返す従兄妹の顔を困ったように見つめ、ゆかりはガクの頬に触れる。
「だいじょうぶ……?」
「馬鹿、お前が、」
噛み付いた自身の両目からいつしかボロボロと涙が溢れていることに、ガクが気づいたのはゆかりが驚いた顔をしたからだ。そしていかにも大儀そうに身体を起こした彼女と、ガクは相対する姿勢になる。温度のない膚にあたたかな指が触れ、存在しないはずの水滴を器用に拭っていく。それでもガクは泣き止むことができなくて、だから、彼女の細い肩を強く抱く。
一瞬、身体をこわばらせた彼女は、しかし少しずつその全身から力を抜き、ガクにされるがままになる。やがて伝わるのはコートの裾をキュッと握られた感覚。サインの意味がよくわからないなりにガクは力を緩め、それによってわずかに自由の利くようになった腕でゆかりが彼を抱きしめるのを、夢のような心地で感じている。
従兄妹の腕は思いの外力強かった。ガクには永遠に取り戻せない熱を持った掌が背骨を撫で、あやすように軽く叩き、そして、

ガクは目を見開く。

痛みではなく、驚きで。

その間にも、背中の中心に突き刺さった衝撃は、ジワジワとガクの神経を侵していく。驚愕が熱を持った痛みに変化していくのを、ガクはただ呆然と感じている。
ゆかりが顔を、上げた。
知らない人間の貌だった。
「……貴、様」
「げに男とは愚かなもの」
ニンマリと上がった口角。覗く隙間から白い歯が見えた。
「誰、だ」
「たわけたことを。主(ぬし)の愛しい愛しい女よ」
次の瞬間、飛び退った《ゆかり》の手には銀色に輝く刃物が握られており、その先端は白く煙る気体に覆われてよく見えない。
それは間違いなく、流出したガクの魂。
生者で言うところの血であり、肉であり、存在そのものを規定する科学では測れない実体だ。
「……っ」
傾いだ身体を大きく一歩出した右足でどうにか支える。間合いを測る《ゆかり》を睨む。
酷薄な笑みを浮かべたままの彼女は、守り刀の剣先をガクの目に向けるようにしている。左手は右手首に添え、野生動物のように全身に闘気をみなぎらせている。
わからないのは、彼女以上に《生》のエネルギーを発散させる存在が、室内のどこにも感じられないことだ。《ゆかり》から目をそらさぬまま、ガクは全身をセンサーにして気配を探る。
「ゆかりは、どこだ」
「だから、ここじゃ」
目を細めた相貌はやはりガクの知らない女のものであったが、その声は確かに慣れ親しんだ従兄妹のもので、ある一つの可能性に至ったガクは限界まで目を見開く。
「……まさか、」
「その通りッ」
そして跳躍した彼女は、鋭い切っ先を振り下ろした。かろうじて躱す。つんのめった彼女の旋毛を見た、と思った一瞬、強烈な足払いにガクは膝を付く。背中から墜落した《ゆかり》は床面を滑り、しかし凄まじい脚力で転倒を止めるとバッと顔を上げた。
目が合う。
心臓を狙った二撃目を逸らせたのは僥倖としか言い様がなかった。その代わりガクの右掌にはやはり大穴が開く(素手で刃物に立ち向かえばそうならざるを得ないだろう)。ガクが生者であれば指が残らず落ちかねない、ザックリ横に切られた傷に絶叫する。慣性の法則により身体を傾けた《ゆかり》は、けれど両足を踏ん張って持ちこたえると、ゆっくりガクを振り向いた。
両者の距離はほぼ無いに等しかったが、彼女は此度は話をしたかったようだ。
「攻撃はしないのか?」
答えが返らぬことなど織り込み済みだろう。いかにも満足げに彼女は頬を緩める。
「ほれ、主の武器」
ペタペタと歩き、破った扉の傍らに落ちていた木槌を思い切り蹴った。それはガクの横を通り過ぎ、壁にぶち当たって止まる。《ゆかり》は哄笑した。
「そうよなあ、手など出せぬよなあ」
天井の高いこの建物では、声はよく反響する。
「こやつの身体が傷ついてしまうものなあ、」
わらってわらって、《ゆかり》は目尻を拭って刀を構える。
「実に立派な殿方じゃ。こんな縁(えにし)でもなければ、可愛がってやったかもしれぬものを」
三撃目は肩口を大きく切り裂いて、またガクの視界に靄がかかる。
目が霞むのは流出そのもののせいか、流れ出た魂が邪魔をしているだけなのか、ガクにはもうわからない。

***

それは、夢を見ている時の感覚に近いといえば近いのかもしれなかった。声を発しているのは自分、手を動かしているのも自分、なのに、目の前で繰り広げられる風景は絶望的に遠い。閉じ込められたゆかりの自我はパノラマで広がるスクリーンの向こう側に脱しようともがくけれども、指先一本さえも思い通り動かすことはできず、呻きすら声にはならなかった。
その間にもガクは傷つけられ、叫び、なのにゆかりを決して害そうとはしない。
もどかしさに気が狂いそうになる。なのに両手は裏腹に、またガクに向かって刃を振るう。
どうすれば、この状況を脱せるのだろう。叫び出したい切実さで、ゆかりは想う。最早それは、考えるなどという悠長な行為ではなかった。ただ、本能だった。
どうすればいい?
戦局を一気にひっくり返すには、
身の内に巣食う白糸を倒し、瀕死のガクを救うには、
今のゆかりが、持つ武器は――

***

冷たい壁際に追い詰められ、ガクはどうすることもできずに従兄妹を見つめた。
彼女でありながら彼女でないその女は、もう笑みを浮かべてはいない。恐ろしいほどに真剣な表情で、ゆっくり得物を振りかぶった。
動く気力はない。無論やられるわけにもいかないのだが、限界だった。
――あとは、
永遠のライバルである明神冬悟と彼の仲間たち。弟分に金髪ザル、そしてあの忌々しいバフォメットを筆頭とする元陰魄軍団。
彼らならば、きっと。
それ以上のことは何も考えられなかった。
目を閉じることすらも、

《ゆかり》が動きを止めた。

剣道で言うところの上段の構え。最高点に達した煌きはそこからそよとも動かない。
徐々に開いていく口から漏れるのは、地の底を這いずる呪詛の声。
「お、の、れ」
呆けた顔を晒すしかできないガクのことなど、彼女はもう見ていない。ただじりじりと、全身の力を振り絞って腕を下げようとしているらしいことはわかった。だがしかし、何のためにだ?

「が、く、さ、ん」

声が変わった。聞き慣れた、例えるならば山奥に湧く清水のように涼やかなそれ。

「ご、め、ん」

左の瞳からポロリと水滴が落ちた。

「ね、え……あな、た」

文字が繋がるようになった、と思ったら、動きのスピードがほんの少し上がった。彼女の内側で、今、二つの力がせめぎ合っている。

「わたし、よ、るに、おしえて、もらった、の……しょう、ねん、まんがの、おもし、ろさ」

左手は右の拳を覆うように。そして右手は剣先の方向を変えようとして、

「しら、ない、で……しょ、あ、た」

掌はちょうど上を向く形で止まる。

「せお、りー、って、も、の」

先ほどまでガクを捉えていた剣先が今目指しているのは、

「てきに、か……だ、を、のっとられ、る、パターン……いっぱい、あ、る、のよ」

剣を使う身体そのもの。

そこまで言って、ゆかりはもう一度ガクを見て、

泣き顔のまま、笑った。

「あ……が、と」

次の瞬間、悪夢は現実になる。

***

身体の奥底で《異物》がのたうつのを感じていた。
だから、胸の痛みなどどれほどのものでもないのだった。
《異物》を逃さないように、ゆかりはまた掌に力を込める。
――お前は、どこにも逃がさない。
月の光が照らしてくれるここでならば、死んでもいいと、そう思った。
それがせめてもの償いだと、心から、そう思った。


(2013.07.01)


モドル