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あの頃からどれほどの時が流れたのか、白糸にはもう思い出せない。

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銀色の髪がまた光を反射して、白糸は顔をしかめた。対する友人はいかにも可笑しそうに笑う。
「そんな顔をするな。美人が台無しだぞ」
「ヒトではない」
彼は笑顔を崩さぬまま、ほんの少し困ったような顔になった。組んだ腕の手首の辺り、着物が捲れ上がってぬらぬらした鱗が覗いている。逞しい腕だ。
「お主は本当に、人間を嫌うな」
「餌を好くも嫌うもあるか」
言い放って後ろを向く。広がる湖はいつもの通りにただ静かだった。今日は風もあまりない。
「お前は馬鹿だ」
答えは返らない。だから白糸はますます胸の内が波立つのを感じる。
「人間の女など」
――いつか裏切られる。
かろうじて最後までは言わずにいられた自分を褒めてやりたいと思った。
当地に辿り着き、どのくらい経ったなど覚えている性分ではない。しかし、それなりの時を共に過ごしたこの《神》に、よもや《ヒト》の情人ができるとはあまりにも予想外で、
――こんなことになるならば。
湧き上がった言葉の先は、いつも続けられることはない。そんなことは白糸の誇りが許さなかった。
水面はそよとも動かない。白糸が睨みつけているからかもしれない、そんなくだらないことをさえ思った。と、背後で僅かに空気の揺れる気配がし、
「お主は優しいな」
投げかけられた言葉に白糸は目をむき、思わず振り返ってしまう。友人――当地では雨降らしの神と崇められている、古い古い出自を持つ龍の神――は相変わらず穏やかな表情のままで、けれどその瞳にはどこか労わりの色が浮かんでいたから、怒鳴ってやろうとした白糸の気持ちは急速に萎み、代わりに金縛りに遭ったように全身を動かせなくなってしまう。
そんな目をするのは狡い、と思った。

もうとうに褪せた記憶の中で、彼の持つ色だけが鮮やかだ。銀の髪、碧の鱗、紅い爪。
長い髪は闇の中で白く映えた。だから白糸は、彼とは夜に逢うのが好きだったのだけれど、覚えているのは日の光の下で鷹揚に笑う姿ばかりだ。それはつまり、別れる直前の思い出だということなのだろう。

情人のことは一度だけ垣間見たことがあった。色白で瞳の大きいその女は、艶やかな黒髪を童のように顎の下で切りそろえていて、白糸はそれをいやらしいと思った。あどけなく笑うその顔を切り裂く前に彼女は彼と共に岩戸へ消え、我に返った白糸もすぐに身を翻した。思えばかの地を発ったのはそれからまもなくのことだ。

人間と通じるようになって、彼はどんどん変わっていった。《恋》に浮かれる彼は、だから気づいていなかった。否、それすらも承知の上だったのだろうか。
時代自体が物凄い勢いで変化し、
《神》は次第に居場所を追われ、
その先に待っているのは決して幸福などではないということを。

***

遠い記憶は錯綜し、現在(いま)と過去(むかし)がごっちゃになる。
あるいはそれが、走馬灯というやつなのかもしれない。

***

「白糸様」
遠慮がちにかけられた声に白糸は振り向く。息を飲んだ僕(しもべ)の表情から、自分が今どんな顔をしているのかは何となくわかった。
「……やはり、あの坊主が」
震えるのは怒りのせいだ。僕――紅(くれない)はそっと目を伏せた。
「何時(いつ)にいたしますか」
それでも冷静さを失わない彼女に、白糸の興奮も徐々に収まっていく。さすがは三姉妹の長姉といったところか。伊達に三桁の時間を白糸の傍らで過ごしてはいないだけのことはある。
「……拾うた時はよもやこのようなことになるとは予想しておらなんだがな」
「は、」
「こちらの話じゃ、気にするな。さて……すぐにでも、と言いたいところだが」
そして白糸は思案する。土地柄、そして家系の事情とやらで厳重に結界を張られたかの寺のこと。
「徐々に蝕む。事を決するは――弥生」
紅は頷く。
「しかしそうすれば、」
「我らはどこまでも白糸様にお供するだけ」
主の言を遮ることなど滅多にない少女は、しかしそれをした。吊り気味のまなじりがほんのり赤く染まっている。もう永遠に年をとることのない彼女は、白糸がかつて棲みついた滝壺に落とされた時のままの姿かたちをしていた。生きることの喜びなど一つも知らずに殺された少女――否、少女《たち》。
住処に残してきた妹娘たちのことが急に思われた。
「良い心がけじゃ」
小さな頭をポンと叩く。僕は目を丸くした。
「帰るぞ。茜と絳が待ちわびておろう」
「は、はい」
言うが早いか背を向けて早足で歩くのは、少女が付き従ってくることを確信しているからだ。
200年ぶりの当地には最早未練などなかった。かつての友の亡骸さえ、ここにないのだから当然だ。
――あの坊主。
また腹の奥から噴き出す感情を、白糸は溜める。
溜めて溜めて、そして爆発させるのだ。
決戦は、弥生。
――弔い合戦、なんて柄にもない。
紅はきっとわかっているだろう、先ほど自分が言おうとした言葉を。
《約束》を破れば、土地を追われるだけではきっと済まない。それは奇しくも今しがた伝え聞いた友の堕天の顛末に似ていて、白糸は唇の端を歪めた。
――だとしても。
あれを害する者は許さない。
たとえそれがどれほど《力》の強い能力者――エガミだかツキミヤだか、だとしても関係ない。
――《約束》を守る、それだけだ。
それ以上の理由など、自分の側には何もない。
ないのだと強く言い聞かせた。

***

ガクが我に返った時には、ゆかりの顔が目の前にあった。苦痛に歪むその表情。
揉み合う。どうにか刃を引き抜こうとするガクに対し、ゆかりは身体ごと揺すって応戦する。掌はまるで柄に吸い付いているようで、大の男が必死に食らいついているにも関わらず、びくともしない。
頭の中はとうに真っ白だった。見えるのはただ、愛しい女性(ひと)だけ――
ゆかりが急に身体を折り曲げた。
二、三度えずいたその後に、厭な音と共に吐き出されたのは真っ白い糸の塊のようなもの。
輪郭の曖昧なそれは、一瞬、空気に溶けるように見えなくなったかと思うと、もう人の形になっていた。
踝まで伸びる長い黒髪。側頭部から生える二本の角。
真紅の着物は目に痛いほどの鮮やかさで、対照的にそれを纏う肌は抜けるような白だ。
立ち尽くす彼女の大きな瞳がガクを睨んだ。唇の色は抜けている。
理由は明白だった。
大きく開いた着物の胸元。豊かな乳房のやや上辺りに穴が穿たれており、そこからどす黒い気体が次々に溢れ――
「ガク!!!」
強烈な光が闇を照らした。女が大きく顔を歪める。
バラバラとなだれ込む足音に、ガクは結界が破られたことを知った。
「ゆかりッ――」
悲鳴のような高い声はあの暴力女のものだろう。水の案内屋(アイツ)がいれば、大丈夫だ。
敵から目をそらさないまま、ガクは踵に当たった重いものをゆっくり拾い上げる。大切な得物を蹴り転がしたことについては、後であの馬鹿に十分仕置を加えねばならない、と思いながら。
手に触れた瞬間、木槌は形を変える。乱れ飛ぶ光の線の一つを反射し、銀色に輝く。
なぜか、女は泣きそうな顔をした。
そのことに、胸が痛むはずもない。
そして千々に引き裂かれた妖は、断末魔すらあげなかった。

***

忌まわしい一夜から、およそ一週間が経過していた。

ゆかりは一命を取り留めた。肌身離さず付けていたロケットが、見るも無残な姿になっていたと聞いたのは、その日の明け方近く。長時間の治療に当たった澪は鬼のような形相に深い疲労を滲ませて、一言、
――アイツ、目が覚めたらぶっ殺す。
と、不穏な言葉を吐いてうたかた荘の共同浴室へと向かった。それを見届けて、ガクは壁をすり抜けた。
横たわっていたのはまるで見知らぬ女性だった。
ゆかりの寝顔を眺めたことは一度ならずある。にも関わらず、ガクはひそかに怯んでしまう。極端に痩せたわけでもなく、恐怖のあまりに髪が白くなったということでもない。ただ、
ただ、何かが決定的に違ってしまっていた。
おそるおそる伸ばした指が血の気の抜けた頬に触れても、ゆかりはピクリとも動かなかった。思わず口元に手をかざして呼吸を確かめてしまったほどだ。
そのままどのくらいの時間が経過したろうか。
気づけば部屋は薄赤いオレンジ色に染まっていた。夜明けではない。それは夕暮れ。
ふとゆかりの瞼が震えた。そのまま静かに開く。
徐々に焦点を結ぶ瞳。さまよう視線がガクの顔を認めて、止まった。
「……ゆ、」
言葉を続けられなかったのは、彼女が涙を流したからだ。
声もなくゆかりは泣いた。
溢れる透明な液体が目尻を通って枕にシミを作るのを、ガクは呆然と眺めていた。

あれから、ゆかりは一言も口をきいていないらしい。

らしい、というのは目覚めた彼女をしばらく《診察》した澪が、関係者全員に対してゆかりの面会謝絶を言い渡したからだ。今以て彼女は自室でほとんどの時を過ごし、生活に関わる諸々のことは全て澪が面倒を見ている。
禁則を破ることは簡単だった。何しろガクは幽霊だ。
けれど誰もがあえてそのタブーを犯さなかったので、ガクもそうすることができなかったのだった。
今やうたかた荘はちょっとしたお通夜のような様相を呈しており、ガクの陰気さにも拍車がかかったであろうことは想像に難くない。何しろしばらく表情筋を動かしていないので、顔が固まったような違和感を覚えるくらいなのだ。
共同リビングから階上を見上げる。しんとした廊下に生き物の気配はない。
聞きたいことも、言いたいことも山ほどあった。焦燥に喉が焼けるようだった。
同じ屋根の下に暮らしているのに、姿を見ることも叶わない。
彼女が何に苦しんでいるのか、ガクには想像もつかない。
そのことがひたすらに悲しくて、悔しくて、苦しくて――
キィ、とかすかな音が響いた。
続いてペタペタと裸足で板を踏む時の音。
ガクはゴクリと唾を飲む。
やがて階段の上に人影が射した。
一週間ぶりに見る従兄妹は、やっぱり知らない人のような顔をしている。

「もうすぐ、父が来ます」

かすれた声が空気を震わせる。
そして従兄妹はゆっくり微笑む。
まるで幽霊のような笑みだった。


(2013.07.06)


モドル