リビングで待つことはできなかった。いつかのように、料理をしていることも。 階段の上から見下ろした従兄妹の顔を思い出す。目が合った瞬間、彼の表情が変わったのは意外だった。一体自分はどんな顔をしていたのだろう、とゆかりは自嘲気味にひとり嗤う。 冬の日暮れは早い。もう外では街灯が点っている時間帯だったけれども、立ち上がらなければ届かない照明の紐に手を伸ばすことが、どうにも億劫だった。薄暗がりに浮かび上がる家具(ほとんどないが)のシルエットが、不意に廃工場での出来事を想起させる。 ――あの女性(ひと)は。 白糸、という名前しかわからなかった。ゆかりが意識を取り戻した時には、もう彼女は跡形もなくこの世から消滅していたから。結局、ゆかりに迫る脅威がなくなったのかどうか、それすらハッキリしないのだ。 ――でも。 彼女が《中》にいた時の、あの感触。怒りと憎しみと悲しみでぐちゃぐちゃになった心の内を、ゆかりは僅かな間ではあるが共有していた。だから多分、ゆかりはあの時居合わせた人間の中では一番、彼女のことを理解しているのだろう。そんな気がした。 だからこそ、憎みきれないのが悔しかった。 《そのこと》を思うと、気が遠くなるような心持ちがする。いっそこのまま、とすら思う。 傍らに置いたペンダントに手をやった。蓋は歪み、中のガラスには醜い亀裂が幾つも走り、微笑む叔母は泣いているように見える。また、鎖も切れてしまっていた。 これのお陰で助かったのだと澪は言った、容赦ない平手打ちの後に。すぐに雪乃が氷嚢を持ってきてくれたから頬が腫れることはなかったけれど(聞かずとも、それが澪自身の頼みによるものだとはわかっていた)。 身体の機能が壊れてしまったかのように、またポロポロと涙が零れる。嗚咽は漏れない。ただゆかりの中の想いが形を変えて外に出ようとしているだけなのだろう。 意識を取り戻してから何日経ったのか、正確なところはわからなかった。その間にゆかりは、おそらくプール一杯分は涙を流したと思う。部屋の外に出られなかったのは、あまりにも酷い顔をしていたせいもあった。澪は何も言わなかったけれど。 しかしそれも、今日で終わりだ。ゆかりは小さく頭を振って、意識を現在に戻そうと試みる。 先ほど、父に連絡を取った。話したいことがあるとだけ告げた。 父は、すぐに来ると言った。平生だったら止めていた(彼が今新作の長編にかかっていることをゆかりは知っている)。しかし今はできるかぎり早く《それ》を確かめなければならないと、ゆかりの魂が告げていた。 窓に寄って、外を見る。うたかた荘に貸室の数は少なかったから、どの部屋からも店子は門扉を見ることができる。今はしんとして、猫の子一匹いないその場所。 ――依の霊は。 ふとそんな考えが脳裏をよぎった。今更すぎるかもしれない。あるいは、やっとそのことを考えられるほど落ち着いたということの証左なのかもしれなかったが、ともかく。 白糸が彼の命を奪ったことは明白だった(ああ、また視界がぼやける)。けれど――言葉にするのもおぞましいことだが――その《方法》については何も言及されていないのだ。 どういう事情で彼女が彼を襲ったのかは、おぼろげなところしかわからない。が、おそらく依にとっては不意打ちで、《無念》を残す死だったはずだ。 無念を――未練を抱えた魂が、どういう道を選ぶかをゆかりはもう知っている。 うたかた荘(ココ)の住人は、皆、そういった意味での仲間たちだ。 ――なら、どうして。 会いに来てくれないのか。 おそらくはずっと押し込めていた問いに、喉の奥が熱くなった。 それは物理的な理由かもしれないし、そうでないかもしれない。後者に思い至った瞬間、ゆかりの絶望は一層に深くなる。目に映る闇よりも尚濃い闇が、窓辺にぽっかりと口を開け、ゆかりはそこに飲み込まれそうになり―― 甲高いブレーキ音が響いた。 それは懐かしい音だった。表を見やるまでもない。 目元を拭って、ゆかりは立ち上がる。 明かりのないのにはもう慣れた。足取りが揺らぐことはない。 迎えた父を、部屋に誘(いざな)う。扉を開けて身体を引けば、父は幽かに眉をしかめた。自身とは対照的に、全く物に執着を持たない娘のことを、彼が常日頃不安に思っていることはお互いに気づかないふりをしている。家族とは往々にしてそういうものだ。 「今、お茶」 立ち上がりかけたゆかりの腕は強く引かれた。 「いいよ、そんな他人行儀な。……座って」 そうしてそのまま強引に座らされたゆかりは、改めてきちんと父に向き合う。卓袱台のこちらと向こう側。こんなに真っ直ぐ父を見たのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。 かつては、傍にいることすら怖かった。 見つめなどしたら、死んでしまうのではないかと思っていた。 その原因がわからないからこそ、ゆかりにできたのはそれを過剰に避けるだけで、 「……ずっと疑問に思っていたことがあるの」 口火を切れば、父の瞳の中心が揺れた。 「私の名前には《ゆり》の音が入ってる」 気づいたのはガクの生家を訪れた帰り道。胸に兆した不吉な影を、ゆかりは無意識の内に押し殺していたのだけれど。 「おかあさんの《一番目》は、本当は誰なの」 父は息を飲んだ。 急に秒針の音が大きくなった気がした。 なのに時を止めてしまったかのようなその姿に、ゆかりは溢れる問いをぶつける以外に術はない。 「おとうさんは、知っていたの」 反応から、ゆかりは一番そうであってほしくなかった可能性が叶えられたことを知る。 「私にかけられた《呪い》は、誰が、何のために」 ゆっくりと父の唇が開く。 一言一句聞き逃すまいと、ゆかりは全身を耳にする。 *** 遠ざかるエンジン音。見送りに出たゆかりはまだ戻らず、ガクは逸る気持ちを抑えかねていた。 「待て」 「なンだその屈辱的な扱いは!!」 まるで飼い犬にするように頭を強く押さえた案内屋に思うさま掴みかかる。普段ならいの一番に乗ってくる明神は、しかし今日は神妙な顔をしている。 「待ってやれ。ゆかりんが戻ってくるまで」 「おまえに、」 何がわかる。 噛み付きかけたガクの口は、血の通う掌で塞がれる。同時に蝶番の軋む音がした。 振り向いた先には、彼女。 「……あ」 「……やだ、何て顔してるの」 解けるように笑った彼女は、長く床についていたためか幾分やつれ気味ではあるけれども、数時間前にガクが感じた違和感を纏ってはいない。間違いなくガクの知る従兄妹――化野ゆかり、その人だった。 「ごめんなさい、ご心配をおかけしました」 深々と頭を下げる彼女に、明神が慌てたように両手を振る。 「そんなのは、いンだよ!ゆかりんはウチの大事な」 「ちょっと今、お話させてもらっていいかな」 「へ?……ああ」 「……できれば皆も」 その一声を皮切りに、壁のあちらこちらからニョキニョキと小さな頭が生える。人間が持つそれだけでなく、コウモリの羽根やウサギの耳が生えているものもあった。心臓の弱い人間が見たら発狂しそうな光景を、ゆかりは微笑んで眺めている。 ――笑っているのに。 とても寂しそうな顔だったから、ガクは思わず手を伸ばす。 ゆかりはさりげなくその手を避けた。 「ゆ」 「さて、……今回のことだけれど」 居住まいを正したゆかりは、ゆっくり一同を見渡した。誰かが唾を飲み込む音がいやに響いた、気がした。 「結論から言えば、狙われていたのは私で――これ以上被害が出ることはありません」 「それはあの蜘蛛がラスボスだったってことか?」 エージの発言に明神が首を傾げる。ガクも同様だ。 「ああ、ラスボス……ラストのボス、で首謀者ってことね」 ゆかりの補足にコンピューターゲームを知らない青年二人は大きく頷く。マフラーを巻いた少年もだ。 さておき、話の続きである。内容に反して冴えない顔色を指摘しようとしたガクは、 「でも、ゆかりさん、あんまり……嬉しそうじゃ……」 またも発言を遮られ、モヤモヤとした気分が胸の底に溜まるのを感じた。姫乃に非はない、それはわかっているのだが。 「うん」 頷いたゆかりは、 「私の恩人が、巻き込まれて亡くなっていたの」 サラリとそのことを告げた。 ひそやかに騒いでいた場の空気が、水を打ったように静まり返る。 「もう半年以上前らしいんだけど。……ちょうど私が引越しを決めた頃ね。……そう、それで」 遠くを見るようにしたゆかりは、再び一人ひとりを見据えるように眺め渡すと、息を吸った。 「お墓参りに行きたいの。……帰ってきたら、全部話すから」 否のあるはずがなかった。 そのまま、それ以上の情報は開示されることのないまま、緊急会議は終了した。 三々五々、自室に戻る面々の背中を見ながらぼんやり佇んでいたガクの肩を叩いた人物がいる。 「な、」 「Oops, なんてこった、真っ青だよ、君」 口調の割に楽しげなバフォメットは、ガクの拳をスラリと躱した。 「不安なんだろ?」 図星をさされて沈黙する。いたずらっぽい目でそれを覗き込む悪魔の山羊は、揶揄いの態度を崩そうとしない。 「確かめればいいじゃないか」 「何を」 「ソイツがユカリの何なのか」 「何って」 「But, しかしながら、恋人がショックに陥っているその時に嫉妬に狂うのは、いいやり方とは言えないな」 深い物思いに沈みかけたガクは我に返る。 「ここここここ」 「やあコクテン、彼がニワトリになってしまったよ。どうしよう?」 「アタシ殺ろうか?」 冗談の響きを全く含まない発言に、ガクは思い切り飛びすさる。皇帝コウモリはそんな彼を冷たく見据えると、身を翻した。 「What’s happen ? どうしたんだい、コクテン」 「頭がお花畑の奴見てるとムカつく」 そうしてガクはいつの間にか、一人リビングに取り残されていることに気づく。 弟分さえいなかった。急に心細い気持ちになり、知らず天井を仰いだ。 まだ夜は更けていない。 草木も眠る丑三つ時。犬塚ガクは従兄妹の部屋の前に佇み、躊躇している真っ最中だった。 木槌を使えばノックはできる。ただし、それで彼女が出てきてくれるかは全く別の問題だ。 そっとその柄を扉に触れさせる。聞こえるか聞こえないかの幽かな摩擦音が響き、 「……誰?」 柔らかなその声に、ガクはぐっと口元を引き締める。その勢いのまま、壁を潜る。 「……ああ、ガクさん」 微笑むゆかりはしかし、何もアクションを起こそうとはしない。 折れそうになる心を振るって、室内に降り立つ。孤立無援の侵入者。 無言のまま、ゆかりが少し首を傾げた。 「…………しい」 「え?」 「……して、欲しい」 「……何を?」 あくまで悪気のなさそうな彼女めがけて、ガクは精一杯の勇気を放つ。 「結婚、して、欲しい」 ゆかりの目が丸くなる。 ややあって、雪が溶けるようにその表情は柔らかになる。 ほっとしたのも束の間、 「ごめんなさい」 ガクの耳は信じられない音を拾って、世界は様相を一変させる。 (2013.07.13) モドル |