「ごめんなさい」 その六文字は、聞き慣れたものであったはずなのに。 *** 言葉もなく見つめるガクに、ゆかりはちょっと微笑んだ。いかにも済まなさそうなその笑み。 「ガクさんのことは、好きよ」 躊躇いのない一言に、無いはずの心臓がドクンと跳ねる。 脈打つ指先に、けれど従兄妹は一瞥をくれさえしない。 「でもそれはあくまでも家族……身内としてのもので」 瞳はあくまでも真摯だった。見えない厳格な一線が、ガクに声を発させない。 「……恋愛感情ではないの」 幾つもの風景が脳裏をよぎった。 初めて出会った時、砂埃の向こうに見えた立ち姿。 せせらぎを背に見つめた黒髪。 絶望の中で視界を横切った列車。その時、腕の中にあった確かな体温。 「……っ」 「それに」 そうして彼女はガクの恋心に、完膚無きまでに止めを指す。 「私…………子供が、欲しいの」 呼吸すら忘れた。その瞬間、全てが無になる。 永遠のような沈黙が落ちる。闇にようやく目が慣れて、ガクはゆかりが先ほどリビングで話をした時のままの服装であることを知る。まだ起きているつもりだったのだろうか。けれど室内の明かりは点いていない、ノートパソコンも立ち上がっていない。病み上がりの彼女は、こんな暗がりで一体していたのだろう。 ――亡くなったという《恩人》のことを、 想ってでもいたというのだろうか。 こみ上げる熱い塊に耐え切れず、ガクはくるりと後ろを向く。そのまま壁をすり抜ける。 ゆかりが何か呟いたけれど、意図的に聴覚を遮断する。 それは四文字だった気がした。ガクが今、一番聞きたくない言葉。 気づけば空中に浮遊していた。見上げれば、雲一つない夜空の彼方に糸のような月がある。 それはむしろ存在ではなく不在。夜の裂け目とでも言うのが適当なくらいの細い、細い―― 限界だった。 地鳴りのような咆哮にガクはたまらず半身を折る。みずからの肩を抱きかかえるように掴むが、全身の震えは止めようもない。 とめどなく涙が溢れる。視界はすぐにぼやけた。さながら嵐の夜、大粒の雨が叩きつける窓のよう。 悲しみではなかった。痛みですらなかった。 定義できる言葉など知らなかった。 0か1かの世界でずっと生きてきたガクにとって、それは全く未知の感情だった。 *** ガバリと跳ね起き、ツキタケは忙しなく周囲を見回す。浅く速い呼吸音が耳についたか、隣りで横たわっていたエージも間もなく大儀そうに身を起こした。 「……どした」 眠たげな声は、彼がまだ半分、夢の中にいるらしいことを窺わせる。 「……アニキがいない」 押し殺すような声を受け、エージはふわぁ、と欠伸をした。 「……ゆかりのとこじゃねえの」 その言葉にツキタケは走り出そうとしていた足を止める。もしもその通りならば、自分が行ってはいけない気がするし(夏の日、川のほとりで見た光景は今もツキタケの心に強く残っている)、きっと心配する必要もない。それに、エージの推測はこれまでの状況を考えると一番自然なものだった。 なのにこの胸騒ぎはなんだろう。 首を巡らして時計を探す。壁の上の方に設えられた掛け時計。表に立つ街灯のいわばおこぼれで幽かに見える文字盤は、短針が3、長針は12の少し手前を指している。 ガクやツキタケといった《先住人組》が寝起きする2号室――この部屋、は、ゆかりの居室である4号室までには少し距離があった。下世話なことと知りつつ、耳を澄ませる。 不自然に感じるくらい、しんとしていた。 針を落とす音さえ拾えてしまえそうな、完全なる無音。 そして焦燥はたやすく増幅する。俗に言う嫌な予感、というやつだ。 「……ちょっと行ってくる」 「おい、」 焦ったような声と共に腕が引かれた。いやいやをするようにそれを拒むが、野球少年も頑固である。 「いや、行かない方がいいって、マジで」 「ちがうんだ」 「何が」 「アニキ、いない気がする」 「へ?」 ポカンと口を開けたエージの、気楽そうな表情に苛立ちが募る。だからそれ以上の説明はせずに壁を抜けた。すぐ隣の3号室、姫乃と雪乃は深い眠りの中についている。ゆかりは、 「……ゆかり姉」 壁から首だけを出し、ツキタケは目当ての女性にそっと声をかけた。しかし部屋の中央、厚めのふとんに覆われて、まるく盛り上がった小山はピクリとも動かず、返事もない。 「……寝てるの?」 規則正しい呼吸の音が何よりの証拠だった。繰り返される空気の振動には一分の乱れもない。 長いため息を吐いた後、ツキタケはとぷりと壁に頭を沈ませる。古びた土壁はその瞬間だけ表面に奇妙な渦を浮かばせて、すぐに元の姿を取り戻した。その間、およそ一秒。 それからきっかり十秒後、ゆかりが闇の中でゆっくり瞼を開いたのを、だからツキタケは知らない。 *** 夜が明けても戻らないガクをツキタケが街中で《発見》したのは、それからおよそ半日が過ぎた後のことだった。 「エージッッ……!!」 うたかた荘の前庭で、駆け戻るツキタケの青ざめた顔を見、エージは緊張した。彼は元々頭の良い少年であり、無意識の内に幾つもの可能性を思い浮かべることには長けている。 しかし、 「……ガク!!おいガク!!」 事態は彼の想像よりも深刻だった。 「アニキ!!アニキってば!!」 長身の男は今や、自分の背丈の半分もない子供たちに揺さぶられて、ただそれだけなのに満身創痍だ。 大きな瞳は虚ろに染まり、彼自身は何も見ていないであろうことが容易く推測せられた。 ツキタケの行動は素早かった。 真昼間の往来、どうにかこうにか兄貴分を引っ張り、自室に導いたかと思うと身を翻す。急いで後を追ったエージが見たのは、廊下の隅で対峙するゆかりとツキタケの姿。 「アニキに、何をしたんですか」 切羽詰った声にゆかりは寂しそうに笑う。 「……『結婚して欲しい』って言われたから、ごめんなさいをしたの」 言葉を失ったツキタケは、けれど横をすり抜けようとした彼女の前に再び立ちはだかった。 「……どいてちょうだい」 「嫌っす」 ゆかりは口をへの字にする。 「……私は生者なのに?」 「……っ」 「ちがう、」 横から入ったエージに、ゆかりは平坦なまなざしを向けた。 共に暮らしはじめて半年、初めて見る表情だった。 怯みそうになる心を奮い立たせ、エージは思い切り足を踏ん張る。 「ガクが言いたいのはそんなことじゃ」 「そんなことよ」 唐突にゆかりはしゃがみ、少年たちに目線を合わせると、息のかかる距離まで顔を近づけた。 硬直する二人を無言のままじっと見つめ、やがて花のような唇を開く。 「もしも死者と生者が《結婚》できるのならば、私がそうしたいのはガクさんじゃない」 そんな言い方で、わかってしまった。 昨夜の話。ゆかりが亡くしたという人物。 立ち尽くすツキタケとエージをひたと見据え、こういう時にいつもそうしていたゆかりは、笑わないまま今度こそ大きく足を出し、二人を置いてけぼりにする。 晩秋の透き通った日光が、なすすべのない子供らを容赦なく照らしていた。午後の日差し。 *** 日が昇り、落ちた。また。そしてまた。 それが七回繰り返されて、ゆかりは今、狭い共同玄関に犇めく人びとと笑顔で向き合っている。 気持ちのいい朝。それは絶好の、 「ハンカチ持ったか?財布は?」 あれやこれやと気を遣おうとする若き管理人は、脇腹を美少女に小突かれている。 「明神さん、おじいちゃんみたいだよ」 「なっ!!」 「そうだな、それも一歩間違えるとボケ老人だぜ」 「んだと、エージ!!」 多分に空気の混じった口笛を鳴らす少年を、ゆかりは柔らかく見やった。見られた方は幽かに気まずそうに視線をそらした。 ――それでいい。 胸の内だけで頷き、ゆかりはあらためて居並ぶ面々を見渡した。 「ありがとう、みんな。……じゃあ、行くね」 「気をつけて、いってらっしゃい」 気遣わしげな雪乃を始め、彼らはけっしてゆかりに詳しいことを聞こうとしなかった。あのコクテンは勿論、ずっと何かを考えているような表情をしたツキタケや姫乃すらも。 だからゆかりは自分から喋った、《恩人》の実家が京都にあること、墓地もその近くだということ、新幹線で向かうのでもう午後の早い時間に着けること、 明日から一週間ほどはその近辺に留まるつもりだということ、 予約した宿の連絡先。 「いってらっしゃい、ゆかりさん」 遠慮がちにかけられた声には、ただ笑顔を返す。 姫乃はふわりと微笑んだが、眉のあたりにはまだ憂いが残っている。 見送りの面々の中にはガクがいなかった。否、もう一週間近くゆかりは彼の姿を見ていない。 清々しいまでに避けられている今の事態を、もちろんゆかりは歓迎している。 ――ただ、 そう思うのはただの我侭だ。 ――最後くらいは、 誰にも気づかれぬうちに握りつぶしてしまわなければいけない、ただの。 「What’s happen ? どうしたんだい、ユカリ」 何もかもを見透かすような瞳(め)をしたバフォメットを、正面から見返した。 それは一秒もなかったろう。 表で鳥が羽ばたいた。だからゆかりは振り向いた。不自然ではなかったはずだ。 「それじゃあ」 軽快に右手を挙げて、左手には小さなトランクを提げて。 玄関を出たゆかりは、眩しさに目を細める。 《いってきます》は言わなかった。 なぜなら《ただいま》を言わないからだ。言うつもりが、ないからだ。 住人たちが、旅慣れていないらしいことが幸いした。ほんの一週間くらいなら、本来は荷物などデイパックで事足りる。 ゆかりの足取りはあくまで軽い。ほんの半年前、この道を逆に辿ったことなど忘れてしまったふりをした。 土埃の中で見た鮮烈な黒髪のことも、 温度のない腕に死ぬほどドキドキしたことも。 おそらく住人たちが気がつくのは、一週間を過ぎてもゆかりが帰らなかった時だろう。 その時にどこにいるかはもう決めてあった。抜かりはない。完璧だ。 と、 ふと柔らかな風が髪を揺らした。 鼻をかすめた甘い香りは、どこから流れてきたものかわからなかった。近くに寺はなかったから、ゆかりは首を傾げたが、すぐに忘れてしまった。こちらは本当に、いっそ不思議なくらい。 ほんとうは、そこで不思議に思うべきだったのだ。 白檀に似た、その甘く重い香のかおりに。 *** 「……なんじゃあこりゃあ!!!」 うたかた荘は4号室、まだ朝の爽やかさを残す日差しに照らされたその部屋で、 白髪の管理人の絶叫が響くのは、ゆかりの思惑に反してそのたった二日後となる。 (2013.07.22) モドル |