朝から風の強い日だった。時折、上空で鋭く音が鳴るほどの。
午前十時。籠一杯の洗濯物をよいしょと抱え、姫乃は廊下に面した窓から外を見る。
雲一つない澄んだ空は冬の初めの色をしていた。視界の隅を枯れ葉が舞う。うたかた荘の主婦1号はその晴れ上がった風景に、しかしなかなかどうして気が気でない。
――うーん、天気はいいんだけど。
今、気持ちよく洗い上げた衣類たちがかえって埃にまみれることにはならないだろうか、そんな思案をしながら歩みを進める。庭の物干し場に行くには、リビングを突っ切るのが早道だ。
「お、姫乃、重そうだな」
と、ダイニング兼リビングのリビング側、アズミのおままごとに付き合っていたらしいエージがふと顔を上げた。その隣にはツキタケがいて、けれど彼の兄貴分の姿はやっぱりない。
沈みそうになる気持ちを奮い立たせて、姫乃は明るく問いかける。
「今日はエージ君、何役なの」
「ブタ」
「ぶたかあ……あの、オレオレ詐欺の?」
「いや、それはもうやめて反省してるっていう設定」
「そんでオイラが狼で」
授業中の小学生のように挙手したツキタケにかぶせるように、
「仲直りのパーティーなの!!」
アズミが満面の笑みで言い、対照的に少年二人は困ったように笑った。
彼女のおままごとはいつでもどこか少しシュールで、それは大方、管理人(と、彼が与えた絵本)のせいであることを姫乃を始めとする住人たちは皆、知っている。やれやれだ。
ともあれ相槌を返しながらツキタケを見、ほんの少し首を傾げてみせると、少年は僅かに頭を振った。
それが意味するところはつまり、兄貴分――ガクは、まだ部屋に閉じこもっているということだ。姫乃は小さくため息を吐き、見るともなしに上を見る。
ゆかりが旅立ってからもう二日経つ。
見送りにも参加しなかったガクは、その日からずっと2号室に籠りきりだ。しかし何しろ飲まず食わずで全く問題ない身体のため、住人たちも遠巻きに見守ることしかできず、現時点でそれが良い方向に働いているかと言えば答えはたぶん否だった。
――ゆかりさんがいれば、
思わず胸に浮かべた述懐が、何の意味もないことに気づいて姫乃は苦い笑いをこぼす。そもそも彼がなぜそんな状態に陥っているのかといえば、当の彼女が原因なのだ。
ガクがゆかりにプロポーズし、彼女は拒んだ。そのことを姫乃は、エージとツキタケを通して確認している。
――どうして?
常識的に考えればありえない疑問を、けれど姫乃は抱いてしまう。なんとなれば、彼女はゆかりの気持ちを直接聞いているからだ。うたかた荘の女性陣が集い、密やかに囁き交わしたあの夏の夜。
――《子供》、って、
もちろん一字一句記憶しているわけではない、けれど、コクテンにそのことについて問われたゆかりは、たしかこんなふうに言ったのではなかったろうか――《人間とそうでないものが結婚する話など、世界中にいくらでもある》。
少なくとも《子供が欲しいから》などという理由(もちろん姫乃は、一般的に女性が抱くその種の願いを否定するものでは決してないし、自分自身がそう思うことだって当然ある)で想いを断とうとしているようには、とても見えなかった。
――じゃあ、
彼女に心境の変化を促した本当の理由は、一体何なのだろう。
と、軋む扉の開閉音に姫乃は我に返る。視線の先にいたのは、
「お、ひめのん、洗濯終わった?」
いつの日も変わらぬ笑顔で自分を包んでくれる年上の恋人。
物思いに関係なく、気持ちが上を向いていく。嬉しさが半分、けれどもう半分は。
「……終わった、よ」
後ろめたさを押し隠し、姫乃はニコリと微笑んだ。気づかない明神は眩しそうに笑う。
「じゃあ手伝うから、ちゃっちゃと干しちゃおうぜ!二人でやれば早いだろ」
そう言って彼は姫乃の手から籠を取り上げる。ずんずんと歩く広い背中を、慌てて追った。
さざ波のように広がる幸福感は、やっぱり少し苦い。

パン、と広げ、パンパン、と叩く。重さのバランスを考慮しながら次々に洗濯バサミを止めていた姫乃は、視線を感じて振り返った。
恋人が、マジマジと己の手先を見つめている。思わず頬が赤らんだ。
「何ですか、何かついてますか」
「いやあ、いつ見てもひめのんの洗濯物干しスキルは凄いよな……」
「何言ってるんですか、もう」
照れ隠しに籠の中は見ずに手探り、拾い上げた布のカタマリをパンと広げ、パンパン、と叩く。今度のは明神の下着だったが、交際関係に陥る前に生活を共にしだして一年以上が経つこのカップルは、誠にらしからぬことに、この手の事態には既に慣れきっていると言ってよかった。
「明神さん、そろそろこれ換えようよ」
「いや、まだ履ける!もったいない!」
「ゴム伸びきっちゃってるじゃない、みっともないよ」
あまつさえこんな初々しくない会話を交わすのを、住人一同、密かに憂えているのだが、当の本人たちは知る由もない。
「だからこないだ一枚下ろしたじゃないか……ほらこれ!!」
そろそろ高さを減らしてきた布の山の中から、明神は誇らしげにそれを取り出す。洗濯ネットに入れられることなど無論なく(今朝、食事の片付けで忙しかった姫乃が、洗濯機を回すように明神に頼んだ結果がこれだ)、乱暴に扱われる運命を甘んじて享受した新品のトランクスは、持ち主の手で皺を伸ばされ、そして、
――……ん?
その時吹いた、一際強い風に思い切り飛ばされた。
呆けた顔を晒したのは一瞬。
「ちょっと待て俺のパンツ!!」
「明神やめろ、うたかた荘の恥だ!!」
絶叫に何事かと飛び出してきたエージは全力でツッコミを入れながらも、上を向いたまま右往左往した。続いて走り出たツキタケも、ポカンと口を開けて下着が風に舞う様子を眺めている。そんなギャラリーの熱い視線などどこ吹く風、古式ゆかしい水色のストライプも誇らしく、それは気持ちよさげに空を舞う。歴代最強の案内屋は空へ向けてぐっと腕を伸ばしたが、そんなものは屁の突っ張りにもならない。
「まだ一回しか履いてないんだぞ!!!」
「だからやめてくださいダンナァ!!!」
ツキタケの心からの叫びに気を惹かれたかのように、それは中空で束の間動きを止めた。
「え?」
「お?」
風が、止んだのか。否、
「ああ!!」
ふわり、と、
一時停止されたビデオが再び物語を紡ぎ出すような軽やかさで、明神曰く《まだ一回しか履いてない》――それに洗濯されたばかりであるから、それなりに清潔ではあろう――下履きは、前庭の中で一際高く枝を伸ばすクスノキの天辺に舞い降りた。
うたかた荘に生える植物の中でもとりわけ古株と言えるこの樹は、そういう種なのかそれとも個体の性質なのか、まるで人間の腕のような枝の伸ばし方をしている。
沈黙が場に満ちた。刹那、一秒。
「……!」
「明神さん、」
突如走り出した恋人の背中を姫乃は呆然と見つめた。黒いパーカーのフードが瞬きする間に玄関扉の内に消える。
「……アイツ、まさか」
「何、エージ君」
背後の呟きに姫乃は身体ごと向き直る。未だ予断を許さぬ状況、野球少年はいつ舞い上がるか知れないトランクスから目をそらさぬまま言葉を続けた。
「ゆかりの部屋のベランダから獲りに行くつもりか?」
姫乃は三度、それを見上げる。この家よりも古いかもしれない大木の、比較的若い枝はどういうわけか確かにゆかりの部屋に向かってよく伸びており、件の物はその先端に引っかかっているのだった。
しかしこの強風のさなかにあって、その命は正に風前の灯火――
――あれ、また、
姫乃の鼻腔をくすぐったのは、遠い記憶を刺激する重い香り。使い慣れた洗濯石鹸のそれでも、柔軟剤のそれでもない、重く甘い――寺院の香り。
幼い頃、母の葬儀で初めて足を踏み入れた寺で知ったその香は、こんなボロ家の庭先に漂うはずもないもの――
二階屋の奥でバタン、と重い音がした。どうやら明神は、大家の特権により店子の部屋に踏み込んだようだ。それ自体は仕方がない、何分緊急事態でもあるし、ゆかりはそんなことで怒るような狭量な人間ではない。
しかし。
いつまでたっても白髪の案内屋がベランダに姿を現すことはなく、
残された子供たちは緊張状態を保ちながらも首をかしげて顔を見合わせた。

***

バタン、と思いの外大きな音がしてしまったのは、どういうわけか4号室の扉の建付が悪く、もっと言うならば明神を拒否しているかのように頑固に動かなかったためだ。思えば彼がこの部屋に足を踏み入れたのは、まだ《住人候補》だったゆかりを案内したあの初夏の夕暮れ以来かもしれず、とすればこのボロ家のこと、半年の間にどこか調子が悪くなっていたのだろうか――と、管理人らしい思考を巡らせた明神は、室内の様子を目の当たりにした瞬間、絶句する。
何もなかった。
否、家具はあった。ゆかりが引越しの際に持ち込んだ卓袱台に鏡台、木製の洋服掛け。入居後に購入した小さめのハンガーラックもそのままだ、けれど、
そこに一つの洋服も掛けられてはおらず、
何より空気のよそよそしさが《何が起きているか》を明神にはっきり伝える。
迷っている暇はなかった。
大股一歩で踏み込むと、押し入れを開ける。
塵一つなく拭き清められたそこには、何もない。
と、
「明神喜べ、ツキタケが……!!って、何して……」
明るい声に振り向いた己は、どんな形相をしていたのだろう。それ自体にか、あるいは部屋の様子にか、息せき切って走り込んできたエージは言葉を途切れさせ、目を見開いた。
「……ンだよ、これ」
問いに答える言葉など元より持ち合わせていない。無言のままの明神にさっさと見切りをつけた少年は、忙しなく左右に首を巡らせ、そしてそれを発見する。
「明神!これ、」
指差した先には卓袱台。
その上に置かれた、輝くばかりに真っ白な封筒。
表書きは

皆様へ

とだけ、あった。
几帳面な文字だった。

***

まず最初に、私はごめんなさいを言わないといけません。
嘘をついてごめんなさい。
そして、危険に巻き込んでごめんなさい。

夏のはじめからこの前の夜までつづいた出来事の、
原因は、私でした。
ううん、本当はきっともっと前からそれは始まっていて、
私が越したことすらたぶん、私が抱えている《呪い》のせいでした。

違うな。

発端は、私が生まれる前で、
でも、発動させたのは他の誰でもない、私です。

《それ》を他人に押し付けた私が、
幾つもの運命を、人生を、狂わせてしまった。

何度謝っても謝りきれない過ちを、私は犯しました。

24年前と、5年前。

両方の話を、私は皆にしなければいけません。
ずっと一人だった私を、まるで家族のように扱ってくれた優しい皆に。

恩を仇で返すようなことになってしまって、本当にごめんなさい。

最後まで、読んでいただけると嬉しいです。

***

薬缶が沸騰の合図を知らせ、姫乃は弾かれたように顔を上げたけれども、母は落ち着いた仕草でガス台のつまみを捻る。ほどなく蒸気は勢いを失くし、熱い湯はポットの中へと移された。
それら、一連の流れを横目に見ながら姫乃は湯呑を盆に並べる。
ともかくお茶を淹れよう、そして腰を据えて話そうと提案したのは母だった。昼食の支度にはやや早い時間帯だったが、かえってよかったと姫乃は思う。今の状態のままそんなことに取り組もうとすれば、包丁で指を切るのは必至――
がちゃん、と音がした場所を見つめた。しっかり両手で掴んだはずの益子焼きは、今は床の上で粉々になっている。
「ご、ごめ、なさ」
「……冬悟さん、」
母の声に肩がこわばる。暖簾の下がった入口には、いつの間にか恋人が立っていた。
「外の空気を吸わせてやってくれる?」
「あ、」
口をパクパクさせる姫乃を労しげに見つめ、
「はい。……行こう、姫乃」
彼は自然に手を繋いだ。
その手がとても温かかったから、
姫乃は、市場に曳かれてゆく子牛のような絶望的な気分で彼の後を追う。

庭の梢にもう例の物は掛かっていない。物理的には触れられないツキタケが咄嗟の機転を利かせ、風を起こして叩き落としたのを姫乃が拾った。あれほど明神の手を逃れるようにしていたのに、嫌に素直に手の中に収まったそれを(おかしな意味ではなく)姫乃はつい眺めてしまい、後で赤面したのはまた別の話だ。
とまれ、並んで空を見上げた。秋の終わりに相応しい、金色を帯びた午後の日差し。
いつか二人で迎えた朝のように、後ろから抱き込まれているという態勢ではない。小さな右手と大きな左手、しっかり繋いで。
光が目に染みて、ジワリと涙が滲んだ。
「……私、最初は、ゆかりさんのこと」
言い淀む姫乃の手を明神は励ますように少し揺すった。
「……キライだったと思う」
「……うん」
「だって」
歯切れの悪い恋人の口調は、何もわかっていないようだったから、
「明神さんはゆかりさんのことを好きだって思ってたから」
初めて思いの丈を打ち明ければ、やはり明神は硬直した。
その顔を見ていたら、くつくつと笑いが上ってきてしまって、そんな様子の姫乃に明神はますます周章狼狽する。
「え、や、何でそんなこと」
「心当たり、ないですか」
恋人は、ちぎれんばかりに首を振り、
「あ、でもその、好きって、勿論そういう好きじゃないけど、す、あ、えっと」
「……いいですよ」
姫乃の許可に明神は目を白黒させ、果ては何度か咳き込みながら言葉を続けた。
「……ゆかりんは、……ちょっとだけ、師匠に似てたんだ」
「……はい」
「底抜けに明るく笑うのに、どっか踏み込めないところがある。飄々として、絶対に周りに弱みを見せない……そういうとこが」
会ったことのないその男性(ひと)を姫乃は思い浮かべる。実際は、何度も彼に助けられていて、覚えていないだけなのだけれど。
「だから、嬉しかったのはたしかだ。……それが、その、そんな風に」
「もういいです」
随分年上のはずの彼が、今はまるで子供のようだ。
だから出来るだけ綺麗に見えるように、姫乃は精一杯の力を振り絞って笑う。
「最初はって言ったでしょう。今は、」
なのに言葉を続けようとすると、喉の奥から熱い塊がこみ上げて、
「……おかしいよ、こんなの」
結局は涙声になってしまう。
「だって、あんなのはゆかりさんのせいじゃない」
「うん」
今度は明神が子供をあやすように、力強い肯定を返す。
「ゆかりんは、間違ってる」
「うん」
「誰かの犠牲の上に成り立つ倖せなんてありえないし」
「うん、」
「過ちは」
そこで明神は言葉を切った。
見上げる。
ここではないどこかに束の間心を遊ばせていた恋人は、やがてしっかりと姫乃の目を見返して頷いた。
「そんなふうに償うものじゃない。絶対」
「うん!」
言葉にならなかった幾つもの、彼の想いを姫乃は受け止め、
彼もまた、そうされたことを知っているようだった。
不思議なことに、風はすっかり止んでいる。
冬の大風は、午後遅くなるほど強く吹くのがこの辺りのセオリーなのに。
遠くまで見える晴天の下、並んだ二人はどこかでこの空を見ているであろうその女性(ひと)に思いを馳せ、
彼女のために何ができるかを考え、
同時にその考えに思い至ったことをやはり互いの瞳の色で知った。


(2013.07.29)


モドル