眞白エージが人生で一番後悔しているのはもちろん、あの冬の日に一人で樹海に足を踏み入れたことだ――半泣きの妹、真知(まち)を置き去りにして。
妹とは特別仲が良かったわけではない、と思う。少年らしく外で遊ぶほうが好きだったエージにとって、室内でのおままごとや人形遊びを好む真知は不可解な存在だったし、真知の方でも《危ない》遊びにばかりに耽る年の近い兄を、煙たがっていたような印象すらある。
にも関わらず彼女はあの日、森の入口まで着いてきたのだが。
虫の知らせとやらが、あったとでも言うのだろうか。

《自分を殺した陰魄を倒して、自分の死体を見つける》――その後、胸に抱いたひそかな野望を叶えるために訪れたうたかた荘で、エージはどういうわけか、生きていた頃よりも余程たくさんの女性と縁を持つこととなった。
例えば、エネルギーの赴くまま、遊んで遊んで遊んで攻撃を絶え間なく繰り出す小さな怪獣・アズミ、
生者のくせに何のてらいもなく自分の存在(ユウレイ)を認めた姫乃、
男の憧れを具現化したような肉体美を誇りながら、そんじょそこらの男なぞよりはるかに恐ろしい存在である澪、など。
いずれも今のエージにとって大切な仲間達だ、その事は胸を張って宣言できる。
とはいえそれはそれとして、彼女たちの言動は、やっぱり真知のそれのように理解しがたいことが多々あり、その度にエージは明神やツキタケとやり場のない気持ちを分かち合った(ガクは基本的に騎士道精神の持ち主なので、全く話が噛み合わなかった)。《オンナってメンドーだよな》――当人たちに聞かれないように託つ輪の中で、エージは度々妹を思った。
――でも、ユカリは。
爽風と共に《こちら側》に足を踏み入れた女性は、どこか彼女たちとは違っていた。
漢らしさ、という点では澪だって十二分に引けは取らない。ただし本来の彼女は、普段の行動からは想像もつかないほどの《可愛いもの好き》な《乙女》であり(以上の表現は彼女にベタ惚れの若き案内屋によるものだ)、そこを考慮すればエージはゆかりに軍配が上がると思う――つまり、自分たちにより近い精神を持つ生き物としての。
たとえばゆかりは、アズミがエンドレスかくれんぼに誘っても最後まで真剣に付き合う。また、ゴウメイに本気の腕相撲勝負を挑んで瞬殺されていることもあった。
――基本的に、馬鹿なんだよな。
姫乃やコクテンが呆れ顔で見守るような事態の中心に、大抵いつでもゆかりはいた。その姿は管理人・明神のそれとオーバーラップするようで、エージとしては心中ひそかに驚くばかりだった。こんなオンナもいるのか、と。オンナらしさって一体全体なんなんだろう、と。
そう、彼にとって化野ゆかりという存在は、他の女性一般がそうであるように神秘的なものでは微塵もなく、
――どっちかっつーと、
悪友のような、兄弟のような、もっと近くて頼りになる。
そんなふうな、存在だった。
――ああ、だから、あの時、
とある場面(シーン)に思い至り、エージは一人大きく頷く。
――オレは、声も出ないくらいに驚いたんだ。

それはほんの数日前のこと。そろそろ晩餉の頃合だと、姫乃の高校の野球部の練習から帰宅したエージは(見学などでは断じてない。これがホントの幽霊部員!)、玄関扉を抜ける前に何気なく横を向いた。そうしたら、ゆかりがいた。
辺りはもうほとんど昏い。普段、白を好む彼女であったがこの時は珍しく紺だか黒だかのワンピースを纏っていたので、気づかずに通り過ぎてしまったとしても不思議はなかった。けれど彼は彼女を見つけ、声をかけあぐねて足を止める。
ゆかりは、少し顎を上げて屋根の方を見ているようだった。
そこに何かがあるのかとエージも首を伸ばしてみたが、日頃の修練で比較的闇に目が慣れている彼をもってしても、何も見出すことはできなかった。ということはつまり、何もなかったということなのだろう。
無表情の彼女は、にも関わらず泣いているように見えて、エージは思わず唾を飲む。
化粧気のない唇が幽かに開き、小さな「あ」の形になったかと思うと、すぐ閉じた。
そして彼女は唐突に身を翻し、
「……嫌だ、エージ君!おかえりなさい!」
目を真ん丸にした後に、解けるように笑った顔はもうエージの見慣れたものだった。姉だか兄だかわからない、場合によっては妹のように見えることすらある無邪気な貌。
「そんなとこ突っ立って、風邪引くよ!」
「……ひかねーよ、霊だし……」
「何言ってんの、病は気から!」
パンパン、と威勢良く背を叩き、ゆかりはもう先に立っている。玄関灯のオレンジ色に縁どられて、その姿は影のように真っ黒く見えた。
その瞬間、エージの背を冷たいものが駆け抜けたのも無理からぬこと。
何となれば、長年(というほどでもないけれど)の修行の中で、彼はしばしばそういう類の霊――陰魄に、出会っていたからだ。影法師が実体化したような、目も鼻も口もなく、妙にペラペラしたそれらは主に都会のビルの隙間に居た。大抵はこちらを気にすることなく佇んでいるばかりであったが、何かのきっかけで激昂すると、山海に存する妖怪どもより厄介な相手になった。
あれは時代が生んだ幽霊だと、いつだか厳しい口調で明神が言うのを聞いたことがある。
誰と関わることもなく、誰に想われることもなく、ただ希薄な存在感でもって夜の合間をたゆたう彼ら。
――ユカリは、
喘ぐように伸ばした手に、背を向けた彼女は気づかない。

彼女が越してきてから約半年、共に過ごした思い出は幾つもある。
けれど少なくとも現時点で、最も鮮烈な印象を残している出来事はそれで、
その理由が今ようやくわかったような気が、エージはしている。

窓をすり抜けようとして、何気なく時計を見た。長針は12、短針は11を指している。
それはすなわち、エージがゆかりの置き手紙を発見してから、まだ30分ほどしか経っていないということと同義なのだった。

「……ツキタケ、」
マフラーの先をしょんぼり垂らした少年は、力なく振り向いた。
姫乃と雪乃が茶を淹れるのだと連れ立って台所に消えた後、所在のないエージは何となく屋根に上ってみた。ら、先客がいたというわけだ。しかし、常と違い彼は一人である。
「エージ……アニキは?」
「動かねえ」
分厚い手紙を住人全員で食い入るように読んだ後、彼女の従兄妹以外は結局、皆部屋を辞したことになる。それは彼が岩のようにその場に居座ったためでもある。鬼のような顔をして。
ツキタケはため息を吐いた。
エージは何かを言おうと思ったが、言葉は重い塊となって喉に詰まったままだ。
――ユカリは。
手紙の内容はショッキングなものだった。
ゆかりの生い立ち、まつわる悲しい出来事、それらでさえ十分に衝撃的だったのに。
――5年前、か。

彼女の選んだ行動が、エージの友人とその兄貴分の運命を《狂わせた》のだと、そこにはあった。

ツキタケを見る。
唇を引き結んで何かを考えている彼に、エージは何もできることがない。
ポケットに突っ込んだ拳を固く握った。
――クールにサイキョー、
いわばエージの師とも言える青年の教えを、心の中で何度も反芻する。けれど、
――……できねーよ、俺には。
肝心な時に何の役にも立てない、そんな自分が不甲斐なかった。
「エージ」
「え、あ、んん?」
急に呼ばれて驚いて、拍子にむせてエージはツキタケに背をさすられた。何もかもがあべこべだ。
「だいじょぶか、」
「ヘ、ヘーキだよ……何だよ、」
水を向けられたツキタケは眉を寄せた。
「エージはどう思った?ゆかり姉の手紙」
「どうもこうも……それは俺が聞きてーよ」
お前に。
言外に滲ませて、友人を見返す。ツキタケの肩から少し力が抜け、眉間のシワも浅くなった。代わりに眉尻が情けなく下がる。
「オイラ……わかんないんだ」
「何が」
「ゆかり姉の、ノロイ?を、ゆかり姉が無理やり解こうとした、せいで?俺たちが死んだってこと」
途切れ途切れに言葉を続け、少年はもう一度ため息を吐く。
「それって本当なのかな」
「……わっかんねえ」
そう、それは、完全なる部外者たるエージにわかるはずもないことだった。
手紙のフレーズを思い出そうと、エージもツキタケのようなしかめ面になる。
縦長の真っ白な便箋に折り目正しく綴られた文字――

――私が、私の呪いを人に押し付ける形になったから

――歪みが起きて、対になる魂を持つガクさんの運命が捻じ曲げられた

――何よりも日付がそれを証明してる

――のみならず、ツキタケ君まで巻き込んで

「……完全に証明する方法なんて、ねーんじゃねーの」
ツキタケは大きく頷いた。
「だろ?全部、ゆかり姉の想像にすぎないじゃないか」
「でもそう考えればいろんな辻褄が合う、って」
エージの言葉に少年は肩を落とす。が、
「……でもさ」
俯いたまま、未練がましくボソボソと続けた。
「実際に俺たちを襲って、……ころした、のは、ゆかり姉とは全然関係ない奴らだろ?」
「……そりゃそうだ」
「……だから……ゆかり姉が書いたみたいに」

――ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね

――どうか、恨んで

「恨むなんて、オイラにはできない」
顔を上げた少年の瞳は幾分か潤んでいるようで、エージは明後日の方を向く。
向いた先には雀が二羽、電線に止まっていて、普段ならピチピチチュンチュンと騒がしいだけの彼らは今日に限ってただ静かに寄り添っている。
その姿が、エージには別のものに見えた。
具体的には、今現在、どこか遠い空の下を歩いているであろう家出人と、
数メートルしか離れていない部屋の中で、今まさに歯を食いしばっている幽霊とに。
「……呪いってなんだろうな」
呟きを、ツキタケは黙って聞いている。
「運命って」
たとえばあの日、気まぐれに樹海に赴いた己は、実はもっと大きな意志に操られていたなんて、そんなことがあるのだろうか。
誰かにそれを指摘されたとして、エージはそれを受け入れられるだろうか。
その《運命》を《用意した》――誰かを、恨んで、楽になれるだろうか。
「……アニキがよく言ってた。俺たちが死んで、すぐの頃」
迷うような調子は変わらない。しかし、その声音の中に幽かに光るものがあるのを、エージは敏感に感じ取る。
「運命は切り開くものだって。……生きてようが死んでようが、それだけは変わらないって。だから、大丈夫だって」
兄貴分によく似た三白眼の奥の奥、きらめくものがそこにある。
「……お前は会えるのか?ユカリに、笑って」
問いに、小さな肩が震えた。けれど、
「……わからない。だから」
成長を止めた少年は、それでもひたむきに前を向く。
もう大きくはならない身体で、過酷な《運命》を乗り越えようと。
「会いたい」
思わず大きく頷いた。
ぐっと右の拳を突き出す。友人はすぐさま応じた。
ぶつかる手に温度はない。
けれど、伝わる熱は確かにあった。
「そうと決まれば」
「うん」
もう一度、電線を見た。仲睦まじい様子の二羽はその瞬間、まるで図ったかのように飛び立つ。
後になり、先になり、じゃれながら、高く高く飛んでゆく。
視線の高さを保ったまま、エージはぐるりと身体を回転させた。葉を落としだした前庭の木々、そして、その向こうに見える我らが《ホーム》。
今にも崩れそうな見た目はいつも通りだ。それでもそれが違ったふうに見えるのは、その中で葛藤している人物がいることを知っているからだろう。
嵐の前の静けさだ。やや上気した心持ちで、そんなことを思う。
友人の手から伝わった熱が、きっとエージの心に火を灯した。それはたぶん、逆に彼にも言えることで。
「……頑張ってもらわないと。アニキに」
「大丈夫だろ、あのストーカーなら」
「アニキの悪口言うな!エージ!!」
ちょっとアイジョウブカイだけだ!!と、顔を真っ赤にして主張する彼を小突きながら、エージは一歩踏み出す。
時間は未だ正午前、日は高い。仮にこのあと喧々諤々やり合ったとしても、明るいうちに《彼女》を迎えに出立しようという企みを現実のものとするには、十分すぎる時間があった。


(2013.08.05)


モドル