***

「アズミは……が……ったんだ」
途切れ途切れに降る声に、アズミは微睡みから覚める。頭のところには温かな手が置かれていて、それは大好きな明神のものだとわかっていた。だって、このちょっとゴツゴツして寝心地の悪い膝枕は間違いなく彼のものだから。
明神は誰かと話をしているようだった。気配を探り、アズミは肩を強ばらせる。
「じゃあ陰魄に遭うこともなく」
「事故の後、一番最初に会ったのが俺だったみたいだ」
「そうですか」
そうして明神の隣の人物は深くため息を吐く。
「怖い思いはしなかったんですね」
怖い思い。それは今、している。
この瞬間、悲しそうに息を吐いたその人の――存在の、奥の奥からにじみ出るもの。
一度だけ、これに似た気配に遭遇したことがある。うたかた荘でブーチンとお留守番をしている時、玄関扉を思い切り蹴り壊して去った狐耳を持つアイツ。
みおオバチャンがいなかったら、アズミもきっと危なかった。
それくらい、強く激しく昏い何かをアイツは全身から吹き出していた。

そのアイツととても似た《何か》をこの人は持っている。

「お、アズミ、起きたか」
顔を覗き込まれる気配がした。アズミはムニャムニャと口の中で言葉を溶かして、寝たふりをする。
「……そろそろ私、仕事戻りますね」
「あ、おう、頑張れよっ」
明神が手を振ったのか、固い膝枕がグラリと揺れた。アズミ必死でしがみつき、そして《何か》が立ち止まったのを感じる。
「ん、どした、ゆかりん」
「……いえ、アズミちゃんよく寝てますから、明神さん動いちゃ駄目ですよ」
言って遠ざかる気配に、アズミの胸の真ん中が痛む。
チクリと刺し、ジワジワと広がるそれを《罪悪感》と呼ぶのだと、小さなアズミはまだ知らない。
それは遠い日の思い出。彼女が越してきてしばらく経った、梅雨の晴れ間の午後の出来事だ。

あの人――ユカリ、が、悪いわけではないのだとわかっていた。
ユカリは明神とおんなじ大人のくせに、何だかいつでもほやほやとしていて(それでも明神はいざという時にはシャキンとすることをアズミはちゃーんと知っている)、ヒメノの方がよっぽどしっかりしている、とアズミは常々思っている。お料理だってヒメノが上手い、今のアズミは食べることができないけれどもそのくらいは見た目でわかる。見た目とそれから、作っている時の様子と(ユカリが台所にいる時はまず音がうるさい!)。
でもだから、そんなヘンな大人だから、ユカリがいるとだいたいいつでも場が和む。
たとえば明神とガクが喧嘩している時でも、ヒメノが仲裁するのとは違う感じで争いはいつの間にか収まってしまうし、そう、アズミがかくれんぼや鬼ごっこ、お絵かきなんかをねだる時、みんながへばってしまってもユカリは最後までにこにこしながら付き合ってくれる。ただし後者の場合は滅多になく、何となれば普段、多くの場合でアズミがユカリを避けてしまうからだ。
理由は一つ。あの《何か》。
何なのだろう、とアズミは考える。小さな、まだあまりにも世界を知らない小さな頭で。
ユカリはアイツとは違う、正真正銘の人間だ。勿論、明神がいつも戦っているインハクとも違う。だって彼女は生きている。
なのにどうしてあんなに怖い感じがするのだろう。
その理由を、アズミはずっと知りたいと思っていた。

***

「あらアズミちゃん」
台所の入口、暖簾の下をうろうろしていたらヒメノのママが振り向いてくれた。ヒメノによく似た、でもヒメノよりももっと大きくて深い笑顔。
膝を曲げて目線を合わせてくれる彼女の傍によちよちと寄る。黒目がちな瞳を覗き込んだ。
「……ユカリ、もうかえってこないの?」
ヒメノのママ――長いのでヒメママでいいか――は顔を曇らせた。それで、アズミの心にも影が落ちる。
厳しい顔で集まる大人たちに阻まれて、肝心の《手紙》は少しもアズミに見えなかった。だから明神の背によじ登り、肩ごしに覗き込んだのだけれどアズミはまだ文字が読めなかったから、結局は明神にお願いをして声に出して読んでもらった。でも、何が起きているのかはさっぱりで、かろうじてわかったのは二つのこと。一つは、ユカリのタマシイにはリュウジンノノロイがかかっているということ、そしてもう一つは、ユカリがさよならと書いていたこと。
あれは、リュウジンノノロイだったのかとアズミは真面目な顔で頷いた。どういう意味かはわからない。しかしそれがユカリのせいではないのは確かなようで、そのことはアズミをほっとさせ、また心をずんと重くさせた。だってアズミがユカリにしたことは。
けれどももう一つの方がより切羽詰った問題だった。だってユカリは、
「どこにいっちゃったの?」
ヒメママは表情を変えないまま小首を傾げた。そのまま考え考え言葉を紡ぐ。
「《自力で解く》ってことは……たぶん、そういう霊能者にでもアテがない限りそんなことは書けないと思うから……考えられるのは、その《彼》が修行したっていうお寺かしら」
ちんぷんかんぷんだった。顔いっぱいにクエスチョンマークを浮かべるアズミをヒメママは見て、
「ああ、ごめんね。えーと……たぶん、お寺だと思うわ」
結局は同じ単語を繰り返す。寺と言って、アズミが思い浮かべるのは一つしかない。
「とーこーいん?」
ツルッパゲのおじいちゃんと、黒々ふさふさなおじいちゃん、それからおでこに三角の布を貼り付けたおじいちゃん。アズミを孫のように可愛がってくれる三人が棲まう寺の名前を口に出すが、ヒメママは困った顔で首を振った。
「じゃあどこ?」
「どこかはわからないの……たぶん、とても遠くだと思うわ」
アズミは瞳を真ん丸にする。
「どうして」
本当は、さっきの手紙にその理由も書いてあったのだろう。現に、明神はじめ皆の表情がどんどんと沈痛になっていく様子をアズミは見ていた、が、いかんせん何が何だかわからないのだ。
それはもしかしたら、コドモニハワカラナイジジョウというやつなのかもしれない。そういう単語をエージがときどき口にするのをアズミは知っている(大人ぶって、自分だってコドモのくせに)。
「……ゆかりちゃんは、自分がここにいないほうがいいって思ってるの」
そうしてヒメママは隠したりしなかった、難しい言葉でアズミを混乱させたりもしなかった。でもだからこそ、アズミの頭の中はパニックになる。
「どうして!」
同じ単語を繰り返すと、ヒメママはすっと表情を改めた。ときどきこういう貌になるのだ。まるで明神やみおオバチャン、そしてユカリに対するみたいな真摯な瞳。
「そのほうがみんなが幸せになれるって、思ってるの」
アズミは目の前が暗くなるような心持ちになる。それはもしかして、アズミが、
「アズミが、あず、」
しなやかな手がアズミの頭上、3センチくらいのところにそっと置かれた。そのことをアズミは影の動きで知る。
「アズミちゃんはわかってたのね」
ふるふると首を振った。わかってたなんて、そんなこと、
「……こわ、かった」
嗚咽混じりに呟けば、手は髪の上をゆっくりと滑った。
「……ノロイ、は」
まだママとパパと3人で暮らしていた頃、お姫様が出てくる絵本をアズミはたくさん読んでもらった。白雪姫も眠り姫も、王子様のキスでノロイが解けて幸せになるのだ。だったら、
「……少なくともすぐには解けないと思うわ」
ヒメママは遠くを見るようにした。何かを懐かしむような眼差し。アズミの頭に添えているのとは逆の手で自分の肩を抱くような仕草。
「そんな、」
「それでも私はこうして生きているのにね」
唐突な話題の転換にアズミは泣くのも忘れてヒメママに見入る。対するヒメママは、とても綺麗な笑顔になった。
「もしかしたら、人は誰でも呪われてるのかもしれないわ。生まれとか、血筋とか……自分じゃどうしようもならないものに」
よくはわからなかったけれど、何となくわかる。だからアズミは口を結んで懸命に耳を傾ける。
「世界を護るのと引き換えに殺されたっておかしくなかったのに、私は」
立ち上がったヒメママは、暖簾を上げてその向こうを見た。視線の先には明神とヒメノがいる。
ヒメママが見ているのは明神のようだ。根拠はないけどそう思う。
「……アズミちゃん、縁って言葉、知ってる?」
「……ひゃくえんとかじゅうえんのえん?」
ヒメママは笑って首を振った。
「えにし、とも言うわね。アズミちゃんと冬悟君、アズミちゃんとエージ君。誰かと誰かが出会う時、そのきっかけになる力みたいなものよ」
アズミは大人ぶってコクリと頷く。半分くらいしかわからなかったが、たぶんそれで大丈夫だ。
「私は、ゆかりちゃんがここに導かれたのは《呪い》のせいばかりじゃないと思うの。だってもしもそうだったら、今、こんなに皆困っていないわ」
今度は大きく頷いた。だってその通りだったからだ。
アズミだけではない、ヒメノだってエージだって、そしていつもふざけてばかりいるあのお猿さんたちだって、手紙を読んで困っていた。困って、苦しそうな顔をしていた。
ノロイというのは、よくはわからないけれどもたぶん、よくないもののはずだ。よくないものを持ったユカリが出て行くというのなら、普通に考えれば皆喜ぶはずで、でも今、現状としてはそうではない。
「えんのせいだね」
覚えたての言葉を威張って使うアズミを、ヒメママは穏やかな顔で見た。
「……呪いが運命だって言うなら、縁が結ばれたのだって運命よ。それはつまり、ゆかりちゃんは倖せになる権利があるってことなんだと思うわ、きっと」
だってそうでなければ、私は。
わたしは、の先はいくら待っても続けられなかった。代わりにヒメママは踵を返す。
「お茶、運びましょうね。そろそろ皆、ちょっとは落ち着いたと思うから」
触れられないアズミはハーイと良いお返事をした後、ヒメママの前までてこてこと歩いた。この家の誰よりも長く住人をしているアズミは何度も明神が転ぶ姿を見てきたから、どの板がアブナイのか熟知している。先に立ってそれを教える、これがアズミ流のお手伝いだ。
歩きながら上を見上げた。いつも眠そうな顔をして二階から降りてきた彼女は今ここにいない。
そういえば昼間はよく寝ていたな、と思い出す。ヤコウセイなんだといつか明神が言っていた。俺と同じだな、と。
眠っている時のユカリはどういうわけかあの気配が薄れるので、アズミはしばしば近寄ったものだ。天下泰平のお気楽な寝顔は、けれど色の白さのせいかアズミに絵本のお姫様のイメージを喚起させた。
――そうか、ねむりひめなのか。
アズミははたと手を打った。その仕草がかの人のそれに影響されたものであることに彼女は気づかない。
――じゃあ、おうじさま、
首をかしげて立ち止まる。後ろでヒメママも止まる。
「…………ガク?」
いまいち腑に落ちないままそれでも後ろを向いて問えば、ヒメママは一瞬目を丸くして、
「よくできました」
その先は小さな小さな声で。
「アズミちゃんもさすが、女の子ね」
意味はわからなかったけれど褒められているようだったから、やっぱりアズミは胸を張った。


(2013.08.10)


モドル