――ガクさんにいつか最高の恋人ができますように。

あたたかな闇に刻まれた声を、今でもはっきりと思い出すことができる。

***

犬塚我区は19で死んだ。幼い頃、密かに抱いた人生の目標を終に叶えられぬまま。

――この世界のまだ見ぬ誰かに
――僕は無償の愛と忠誠を誓う

死者として目覚めた時の足元の砂が崩れていくような感覚を忘れることは、この先も決してできないだろう。

それでも、霊となってからの彼の行動原理には何らの変わるところもなかった。
すなわち《自分の愛を受け入れてくれるモノを無限に愛し、それを阻むモノを破壊する》――空腹を感じないこと、心臓が搏動しないこと、などを除けば生きている時と全く変わらないその在り方に、自分自身でさえ少々拍子抜けしたくらいだ。
そう、およそ女性と呼ばれる存在への熱意も全く揺らぐことはなかった。
ホンの少しでも自分を感知してくれる女性には例外なく恋をした。雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず――しかし大抵の場合、前触れなく花開くそれはすぐに跡形もなく散ってしまう運命にあったから、だから生きている時以上のバイタリティと行動力でもってガクは彼女たちにアプローチをかけ続けた。隣で弟分が呆れ顔で見ていることなんか、ちっとも気にならなかった。
だってそれは、まさしく渇望だったのだ。
砂漠を渡る旅人がオアシスを求めるような切実さで、ガクは《たった一人の人》を探しつづけた。繰り返し繰り返し、寄せては返す波のような恋情に都度全身を侵されながら。
苦しかった。けれど、幸せでもあった。
理由などなかった。あるのはただ衝動だった。
自分自身ですら、否、だからこそ抗えない感情のうねり。
魂の底から希求するもの。

水辺を見つけることはできないまま、いつしか何年もの時が経った。けれど、どうしてか不安に駆られることはなかった。
《失恋》のたびに酷く落ち込む性質だったからかもしれない。ガクが絶望を覚えるのはあくまでその時の《恋人候補》に嫌われた(本当は存在を承認されてすらいない場合がほとんどだったが、それは彼のあずかり知らぬところである)という事実に対してであって、まだ見ぬ未来とやらはそもそも関心の埒外にあった。
神吹白金をして《ガク君はパラノイドサーカスよりよっぽど野生があるよね》と言わしめる所以である。
犬塚我区にあるのは、ただ、今現在だけだった。
瞬間の積み重ねで彼は活きた。そうしなければとても正気を保っていられそうになかったからだけれども、それはまた別の話だ。
ともかく、そんなふうにして選択した活き方の果てで出会えた少女にガクはすぐに夢中になって、
今度の彼女は他の女性たちとは違う、本当に特別な存在になりそうな予感があって、
でも、あの冬の朝、足音を忍ばせてリビングを出て行く後ろ姿に、
嗚呼彼女もまた自分の運命の女性ではなかったのだと骨身にしみる寒さと共に思い知って――

砂埃の向こうにたなびく黒髪に目を奪われたのは、新緑の美しい季節だった。
その瞬間、彼の世界から音は消え、
吸い込まれそうな瞳を魅入られたように見返して、
触れた肘が痛むほどの熱を持って、

腕の中の柔らかな感触に気が遠くなりかけるのを必死で抑えていた。

「ああ、俺は」
独白を聞く者は誰もいない。雪乃と姫乃は台所へ、その後を追うように明神とアズミが階下へ。弟分とその友人はベランダに出たし、元陰魄軍団は天井をすり抜けてどこかに行ってしまった。
「あの時、既に」
聞いているのは家主を失った部屋とそこで慈しまれた記憶を持つ家具たちだけだ。
「お前に恋をしていたのか」
風もないのにカーテンが揺れた。深海のようなその蒼。
コントラストで輝くような、白い紙片に目を落とす。
彼女の筆跡をこの目で見たのは初めてだった。子供が書くように力強く、伸びやかな文字。
それは血と土地の縁が絡み合った物語を紡ぐには、あまりに相応しくないかたちをしていた。
そっと胸に手をやる。動かない心臓を確かめるように。
彼女の魂がそうならば、対になる自分の魂にも呪いとやらがかかっているのだろうか。
この魂は、生まれた時から穢れるように運命づけられていたとでも言うのだろうか。
――けがれる?
自分が発した言葉にガクは深い絶望を覚える。
彼女は《それ》のせいで幾人もの人間を不幸にしたのだという。
母を、家族を、友人を、恋した人を、そして、

ガクと、ツキタケを。

その記憶は鮮血の紅(あか)にまみれている。

泣き叫ぶツキタケの必死の表情、
どんなに伸ばしても届かない自身の腕、
そして、ガンガンと痛む後頭部と腹の底からこみ上げる吐き気。

頬に当たるコンクリートのつめたさを最期にガクの感覚はふつりと途切れ、
次に目を開けた先には顔を歪ませたツキタケがいた。

助かったのだとそう思った。

思ったのに。

生きていた頃と代わりのない行動を繰り返す一方で、ガクは誰にも言えない決意をした。
弟分は何もかもわかっているような顔でガクに従ったから、あえて説明はしなかった。
それでもツキタケは、きっと考えたこともないだろう。ガクが一人で逝こうとしている場所のことは。
彼はガクに全幅の信頼を寄せている。だからそれを逆手に取った。
そうでなければゆるせなかった。
犯人ではない、
自分をだ。

ピンピンと元気よく撥ねる癖毛血が繋がっているわけでもないのにガクとよく似た三白眼気味の大きな目同い年の子供に比べて小さな掌すんなりと伸びた色の白い脚

あの時、あの命を守れるのはガクしかいなかった。
そしてガクは敗北した。

今も夢に見ることがある。死者としてのはじまりの瞬間(とき)、悪夢という言葉そのものだった冬の深夜。寄り添うガクとツキタケが座り込んだ少し先の床面を、月が皓皓と照らしていた。
窓の形に区切られた光のせいで、周りは一層黒々と沈んで、それは死んだばかりの彼らもそうで。

あの日、ガクにとって闇は絶望の象徴になった。
それは抗うべきものだった。倒すべき敵だった。
だから、

あたたかな掌が目元を覆った時のことをこんなにも鮮明に思い出すのだろう。

一晩一緒にいようと言って隣に座った、ガクの従兄妹がくれた熱。
繰り返し瞼の裏で再生される姫乃と明神が寄り添い合う光景を遮ってくれた、人工の暗さ。
薄い唇から零れた祈りが耳に届いた時、ぱっ、と、命が開いた気がした。
物理的には存在するはずのないガクのいのち、
復讐を遂げれば跡形もなく消滅する運命を辿るであろう、いのちが。

ああ、あれは俺にとって、たしかに。

ガクの中でせめぎ合う二つの記憶が、今、温度のない身体の内部で激しくぶつかる。
絶望としての闇と、幸福としてのそれ。
己の罪のつめたさと、
熱に触れた時の白く霞む意識。

やっと出会えた運命の女性(ひと)は、魂が奇形なのだという。
ガクの魂はそれにぴったり合う形なのだが、彼女はそれはいけないという。

自分は罰を受けねばならないと、
けれどもガクは幸せにならなければいけないと、言う。

そのために一人で遠いところへ往くのだと、

それが己の幸福なのだと。

それは、

「違う」

知らず口に出した言葉に、ガクの胸が熱を持つ。
と、風もないのにカーテンが揺れて、
窓辺からヒラリと何かが落ちた。
近寄り、目を近づけるまでもない。濃い藍色には覚えがあった。
「あいつ」
生者にあげられるものなど何もないガクが唯一、彼女に手渡したもの。
その頃はまだ意識に上っていなかった恋心と一緒に。

指の先まで熱が満ちた。

生前の記憶が呼び起こす、それは錯覚だ。
今のガクはこの世に存在しないはずの存在、血も肉も内蔵も何一つ実際に有してはいない。生理現象とは無縁の身体、生きている人間に触れることすらできやしない。
あるのはただ、この魂だけだ。
歪んでいるかもしれない、在るだけで罪かもしれない、それでもこんなにも沸き立って、今だって身体の深い深いところから予期せぬ涙を連れてくるほどの力強さを持った魂。

「それでいいんだ」

ふっと部屋の空気がほどけた。
初めて会う同士の人間が緊張を解いて笑顔を見せ合うときの雰囲気に、それはとてもよく似ていた。

***

階段を降りた。そこにはこの家に住まう全員がいた。
一斉に振り向く彼らに向かってガクは顔をしかめてみせる。
「……ガク」
最初に口を開いたのは忌々しい、永遠のライバルである若き案内屋だ。妙に悲壮感を漂わせたその顔をにらみ返すと、ガクは白く輝く頭の天辺めがけて思い切りピコピコハンマーを振り下ろした。
「あにすんだよ!!」
「わかったような顔がウザい。というかおまえの顔は元々ウザい」
「ざっけんな!!」
ごく冷静に指摘してやったのに血の気の多い案内屋は状況も忘れて掴みかかってきて、もちろんしっかり者の彼女に止められる。
「ガクリン何言ってるの、こんな時に!」
「ごめんなひめのん、俺の元・マイスウィート。残念ながら君の蜜よりも甘いお説教を聞く時間は今はないんだ」
ガクは紳士であるからして、どんな場合であっても女性を褒めることは忘れない。それは今の恋人であるところの《彼女》への裏切りではもちろんない。
姫乃の目が丸くなった。
「……ガクリン、」
「行ってくる」
ざわりと場の空気が動いた。見渡せば姫乃だけでない、ある者は口をポカンと開け、またある者は忙しなく瞬きを繰り返している。姫乃と雪乃とツキタケの仕草は愛らしいが、それ以外はどうでもいいなとガクは思い、
「ガク……お前、わらっ……」
「藁がどうしたバ管理人」
「ア、アニキが……」
「ツキタケ」
絶句、という風情が相応しい弟分の前にしゃがんで目線を合わせた。
「俺は、俺たちを殺した奴らを決して赦さない」
わたわたと上下に動いていたツキタケの腕が止まった。コクリと細い喉が鳴る。
「だけど、俺は」
きっと今この瞬間も、ガクの魂の中心で龍の欠片が光っている。
逃れられない運命を、だけれどガクは越えていく。
「……」
そう決めたけれど、一人では足りないのだ。
隣に彼女がいてくれなければ、ガクは全てを背負えない。
それは呪いだとか定めだとかではなく、単純に、今、この瞬間、
「俺は、ゆかりを」
あいしている、それだけなのだ。
「アニキ」
ツキタケの口角がふわりと上がった。
「いってらっしゃい」
赤いマフラーを照れたように引っ張って、
「オイラ、ゆかり姉に話したいことたくさんあるから、でも、オイラが行ったんじゃ意味ないから」
「そんなことっ……」
「あ、あとズッコケシリーズの続き借りてくれるっていう約束したのに、ゆかり姉守ってくれてないし」
「ツキタケ」
「だから早く帰ってきてって伝えてください」
けがれのない瞳で、真っ直ぐガクを見て。
「オイラ、アニキのこともゆかり姉のことも……待ってます」
「おい、何してるこんなとこで」
背後から飛び込んだ声に住人は全員首をすくめ、三々五々、振り向いた。一点に集まる視線の先には、
「……澪さん」
「僕もいるよ?」
軽やかに割り込んだ白金は片手に持った封筒をひらひらさせたまま、徐々に訝しげな表情になる。
「……どしたの」
「白金さん、実は」
「おい乱暴女」
勢い込んだ姫乃にかぶせるようにガクは言葉を放った。やはり普段はこのようなことはやらないけれど、今は緊急事態だ。
「頼みがある」
「……人にお願いをする態度じゃないな?」
「ゆかりが家出した」
色めき立つ二人を見据えて、ガクは一言、
「おまえにしかできないことだ」
まるで、起きているのがたいしたことではないように言葉を続ける。
落ち着け、と自分に言い聞かせた。
会いたい。会いたい。早く、会いたい。
ないはずの心臓は、秒針の2倍の速さで時を刻んでいる。


(2013.08.26)


モドル