延々と続く白土塀は鯨幕に似ていた。
その寺は川沿いに建っており、敷地はかなり広いようだった。歩いても歩いても果ての見えないその様に、ゆかりはいつかもこんな道行きがあったような気がしたけれども、脳の一部が痺れたような感覚に思い出すのを諦める。
原因はわかっていた。
数時間前の出来事は予想の範囲内とはいえ十分にゆかりを打ちのめすに足るものだった。
しかし今は、成さねばならないことがある。
と、遥かな向こう、幽かに色の違う壁が見えた。壁――否、柱だ。艶々と黒光りする太い柱と、それに支えられた重厚な瓦屋根。やがてゆかりの眼前に現れたポッカリ開いた口の向こうは、静謐な空間が広がっていた。僅かに切り取られた空は鈍色をしている。
夕暮れにはまだ早い刻限だったが、どんどん気温が下がっているのをゆかりは既に感じている。
くしゃみ、一つ。呼応するようにどこかで猫が鳴いた。その後は沈黙。

四十絡みの住職は、教師がするような銀縁の眼鏡をかけていた。けれどその奥の瞳はあたたかく、ゆかりは肩の力が抜けるのを感じる。
月宮の、と告げると彼は軽く頷いた。
「先ほど、お電話が」
「……そうですか」
依(かれ)の母は約束通り、話を通してくれていたらしい。
「こちらです」
先に立って行く彼の、小柄だが厚みのある背中をゆかりは見るともなしに見ながら後を追う。思えば依も上背のあるほうではなかった。彼も順当に年を取ればこんなふうになったのだろうか。
壮年の僧の足取りはしっかりしていて、彼が日頃から修行を怠っていないことを伺わせた。
本堂の左手、墓地の入口は簡素な門で区切られていた。幾つもの列を連ねて整然と並ぶ墓石は、それなりにスペースがあるためかゆったりと寛いでいるようにさえ見える。サクやゴンジ、モイチが見たら声を揃えて羨ましがるだろう光景だ。《これが京都の貫禄か!》、《やめろサク、田舎モン丸出しだぞ》、《広いのー♪》……克明に思い浮かぶ台詞にゆかりはつい笑みを零す。
「……どうかしましたか?」
「いえ、すみません」
慌てて苦虫を噛み潰したような顔を作ったゆかりを、僧は心なしか首をかしげて眺めたが、それもほんの一時。すぐに元の歩調を取り戻した彼は、やがてその一角で立ち止まる。
木戸があった。ボロボロの、今にも崩れてしまいそうなそれはしかし、上部が開いているタイプではなく、板を連ねて出来ているものだったため、扉の向こうは全く見えない。かろうじて木が繁っているらしいのだけは確認できた。植物に明るくない、だいたい桜とそれ以外くらいしか区別のつかないゆかりには何という種類なのかさっぱりわからないけれど、どれもこれも大木だ。
一層、空気がひんやりと沈んだような気がした。
淀みではない。あえて言うなら、寂しさ?
「ここから先は」
もの問いたげに省略された続きをゆかりは察して頷いた。
「構いませんか。……一人で」
「承知しました」
そして僧は、袂から何かを取り出す。
珠だった。
夏のせせらぎのような白いうねりを内包した、これは水晶だろうか。
「当寺きっての魔除けです。ご供養は毎日しておりますし、心配は無用かと存じますが……念の為に」
ゆかりは押し頂いてそれを受ける。冷えた指先では、それがつめたいのかあたたかいのかもよくわからなかった。
一礼して去る彼の後ろ姿が見えなくなるまで見送って、振り返る。古びているのにささくれ一つない扉を、ゆかりはゆっくりと押し開けた。

足を一歩踏み入れただけで空気が変わったのがわかった。
鬱蒼とした木々に囲まれ、なのに生き物の気配がまるでない。ひたすらにしんと静まったそこは何かに耐えているように思われた。
取材や何かで訪れたことのある廃墟の類とはまた違う。打ち捨てられ、忘れ去られた者のかなしみはそこにない。広いようで狭い、しかし深い、この一帯に色濃く立ち込めているのは――強い《鎮魂》の意志。
真っ直ぐ伸びる石畳は塵一つなく掃き清められている。加工していない表面は足の裏に凹凸を伝え、それすらゆかりに感傷を起こさせる。
ゆかりの歩幅できっかり20歩。辿りついた墓石は、思っていたよりも小さかった。
たとえばサクたちの墓は今風の、やけに色が明るかったり表面がツルツルしていたりする石が使われていたけれども、これは昔ながらの灰色のそれ。特に加工もしていないようだ。
ここに代々の《依》が眠っているのだという。
ゆかりがよく知る依(かれ)が、ここに戻ってこられたかは定かではないのだけれど――
表には梵字のようなものが刻まれており、浅学なゆかりは読めもしない。
ただ気がつくと、その深い彫り跡に触れていた。
意外なほどにザラつきはない。先ほど僧の言っていた言葉――毎日ご供養はしておりますし――は本当のようで、
そう思ったらもう駄目だった。
急速に視界が歪む。喉の奥からせり上がる熱い塊。食いしばった唇から嗚咽が漏れ、ゆかりは右手で墓石に触れたままうずくまった。
死者たちは何も答えてはくれない。

京都駅に到着したのは、うたかた荘を発った日の午後だった。さすが、新幹線は速かった。墓参りを済ませたらすぐさま月光寺に向かうつもりだったゆかりは、だから今回は奮発したのだ。どうせ俗世を離れてしまえば、金の使い道などほとんどなくなる。
しかし、ここに来るまでに三日も要してしまったのは予定外だ。
維継から聞き出したので住所はわかっていた、ただどうしても足を運ぶことができなかった。決心がつくまでゆかりはひたすら宿に籠り(もちろん明神に伝えたのとは別の宿だ。素泊まりよりは高価いそこそこのビジネスホテル)、路地に面した窓から少しだけ見える空を眺めては唸っていた。
何かを見たり、聞いたりするのは逆効果だとわかっていた。
迷いを断ち切るには、ただ自分と向き合う他に術などないのだ。
西の地で迎えた三度目の明け方、いつの間にか寝入っていたゆかりは夢を見た。
内容は覚えていない。ただ、起きた時には身体中の倦怠感が嘘のように消え、気がつくと生まれ変わったような心地で薔薇色の朝焼けを見つめていた。
やっと訪れた切欠を逃すわけにはいかなかった。急いで荷物をまとめたゆかりは電車に飛び乗り、幾つかの乗り換えを経て、とうとう《そこ》の前に着いた。既に太陽が空の天辺に上り詰めている時刻だった。
古い、平屋の日本家屋。
おどろおどろしい雰囲気など微塵もない。
庭先にはうたかた荘にあるような物干し台が置かれていたが、何もかかってはいなかった。空模様が怪しいためだろう。
引き戸の前に立ち、小さく深呼吸をした。震えそうになる指をなだめ、黒いボタンに触れようとしたその時、前触れなく戸が開いた。
「きゃっ……」
身を竦ませ、後ずさったのは若い女性。肩より少し伸びた明るい茶色の髪が風に翻り、それは薄暗い玄関に光を放ったかのようだった。ゆかりも急いで二、三歩下がり、あらためて彼女に向かい合う。
思わず息を飲んだ。女性は怪訝そうな顔を崩さない。
その眉のひそめ方までよく似ていた。彼は女顔とよくからかわれていたけれど、それにしても、
「……どちら様ですか?」
ひくりとゆかりの喉が鳴る。詰まりそうになる言葉を必死に押し出した。
「……化野、ゆかりと」
目の前を火花が散った。頬を押さえることも忘れて立ちすくむゆかりの目に、女性の真っ赤な顔が映る。
目尻に涙を溜めた彼女は小さく肩を震わせている。
「帰れ!!!二度と来るな!!!」
「どうしたの、麻美子」
と、パタパタと軽い足音が近づき、ヒョイと顔を出したのは長い髪を一つに束ねた背の高い中年の女性で、その顔立ちもまた――
「お、兄ちゃんは、アンタのせいで……!」
「……麻美子、」
再び振り上げられた細い腕は彼女の母に止められる。
けれど、ようやく痛みを訴え始めた膚よりも、ゆかりの胸の中心に開いた穴でゴウゴウと風が渦巻く方が問題で、
「……っ」
やっと巡ってきた《謝罪》の機会に、ゆかりはただ木偶のように突っ立っているしかできない。

依の母はゆかりを責めるようなことは一切言わなかった。

ひたすらに娘の無礼を詫びる彼女は、しかし、決してゆかりを招き入れようとはしなかった。

きっと、彼女もどうしていいかわからなかったのだろう。

墓の場所を教えてもらえただけで奇跡のようなものだ。

「なのに、」
唇から言葉が零れたのと同時に、ゆかりの髪に何か軽いものが触れた。
毛先を揺らして落ちる雫はやがてアタックの間隔を狭め、しとしとと彼女の身体を濡らしはじめる。
折り畳み傘を開く気には到底なれなかった。そもそもそれほど強い雨でもない、雲間からは薄く日差しが指している。いわゆる狐の嫁入りというやつだ。
「わたしは」
魂が穢れているのだとはとうに知っていた。それでも、自分の想いさえこんなに汚いものだとは思いもしなかった。
独白は嗚咽にかき消されて続かない。辛いのは、苦しいのは、全て自分のせいだった。
依の妹に、そして母に、拒絶された時に、なぜあれほど絶望を感じたのか。

答えは一つ。ゆかりが彼女たちに赦されたいと思っていたから、だ。

あれだけのことをして、
償いに全てを捨てる決意をして、
それでもなお、心の底では、きっとゆかりは誰かに言ってもらいたかったのだ。

あなたは悪くない、と、
あなたはよくやった、と、

ゆるしてあげる、と。

「サイテー、だ……」

左手で珠を強く握って、けれどすぐに力を抜いた。そっと墓石の前にそれを置く、まるで供え物のように。
だって災厄そのもののようなゆかりが魔除けを持つなんて笑い話にもならない――

「全くその通りだな」

すぐ背後、ほんの一メートルも離れていない場所から発された声に、ゆかりは文字通り飛び上がった。
拍子に触れた水晶はゴロゴロと転がり、爪先の尖った白い靴の前で吸い寄せられるように止まった。

「風邪を引くだろう。即刻傘を差せ」

言い終わると同時にツンと顎を上げた彼の、艶やかな黒髪がバサリと揺れた。
暖かそうな濃茶のコートと柔らかそうなベージュの毛束は雨を跳ね返すように見えて、その実、少しも濡れてはいない。
どこか遠くで鳥の羽ばたく音がした。
ゆかりは《彼》から目をそらせない。


(2013.09.02)


モドル