「…………幽霊?」 間抜けな呟きに、けれどいつでも真剣な従兄妹は重々しく頷く。 「いかにも」 「……いや、そうじゃなくて、そういう意味じゃなくて……」 あくまで真面目な態度を崩さぬつもりらしい彼に対し、ゆかりの思考は停止したままだ。 穴があくほどかの人を見つめる。 土気色の肌。瞳孔が開きぎみの三白眼。薄暗い森の中、そこだけ濡れたように輝く黒髪。 その姿はあまりに見慣れたもので。 と、業を煮やしたか、ガクが一歩前に出た。 同時に掴まれた手首を思わず払う。 「……っ」 打たれ弱い従兄妹は、途端に捨てられた子犬のような目になった。けれど、それはほんの一瞬。 再び、そして先ほどよりも力強く握りこまれた右手の甲。此度のゆかりはどうあってもそれを振り払うことができず、気づけば彼の強引なリードで、墓の傍らに生えている一際大きな古木の前に導かれている。 「ここなら当たらんだろう。どうせすぐに止む」 雨のことを言っているのだと、そこで初めて気がついた。 釣られるように見上げた空は、たしかに雲間から光が射している。いわゆる狐の嫁入りだ。雨脚もそれほど激しくはなく、彼の言葉は本当に思えた。 そしてゆかりは下を見る。目的を達したはずの温度のない掌は、しかし未だ離れようとしない。 「……離して」 「嫌だ」 言って従兄妹はそっぽを向く。その姿はまるで子供だ。なのに、 「……ねえ」 たった数日離れていただけなのに、ぶっきらぼうな物言いを涙が出るほど懐かしく感じてしまうのはどうしてだろう。 それは、いけないことなのに。 「お願い」 「断る」 決してゆかりを見ようとしない彼の頬がうす赤く染まっているのを正確に捉えた視力1.5の両眼を、ゆかりは心底恨めしく思う。もしも彼が生者であれば、触れた肌を通して圧倒的なその熱が伝わっているであろうこの場面―― 《それ》に気づいた途端、突かれるように胸が痛む。 だからゆかりは骨ばった大きな手の甲に、掴まれていない方の手でそっと触れる。尖った肩を跳ねさせた、彼の仕草には気づかないふりをした。決意と関係なく搏動を高めるおのが心臓のことも。 人差し指。中指。薬指。……また、人差し指。 無言で一本ずつ長い指を引き剥がそうとするゆかりに、従兄妹もまた無言で応えた。剥がした先から吸い付くそれ。静かな攻防はおよそ2、3分も続いたろうか。 とうとうゆかりの瞳から一粒の涙が零れ、 ガクの動きが止まった。 逃げるなら、今がチャンスだった。 けれどゆかりもまた、立っている場所から動けない。 透明な水は絶えることなく湧いて出た。幾つもの雫が雨と混ざって土に落ち、跡形もなく吸い込まれていく。 「……だんでしょ」 「え?」 聞き取れなかったのだろうか。眉をしかめてずいと顔を突き出す彼に、ゆかりの心が悲鳴を上げる。 触れてはいけないひとなのに。愛しく思うのをやめようと、とっくの昔に決めたのに。 「……読んだんでしょ、手紙」 つっかえつっかえようやく言えば、従兄妹は渋面のままフン、と頷いた。 「なんで来たの」 来るな、と言うべきだった。重ねた左手も除けるべきだった。それができないゆかりの、どうしようもない弱さ―― 「帰ろう」 ガクの返答もまた、答えになってはいなかった。けれどだからこそ、その想いは正確に伝わってしまう。 顔をこわばらせたゆかりを真っ直ぐ見て、愛の男は尚も睦言を囁く。 「迎えに来た」 「……だから」 しゃくりあげ、大きく首を横に振った。それで、繋いだ手もゆらゆらと揺れた。 「……駄目なの」 「どうして」 どうして!彼の思考の一体どこからそんな言葉が湧いてくると言うのだろう。だってゆかりは、 「……私の、せいだよ」 決定的な台詞を唇に上らせると、従兄妹はピクリと反応した。 やはり。 万一の時のために、と何度もイメージトレーニングをした。最悪の反応を強く心に思い描いて。 もう数え切れないほど、ゆかりは想像の中で傷ついたはずだった。自分で自分を傷つけたはずだった。 なのに今、怖くて彼の顔を見られない。 だから俯いたまま、必死に声を絞り出した。 「そもそも、どうして私がうたかた荘に引っ越したのかって言うと……学生の頃からずうっと住んでたアパートの大家さんが怪我をして、……もう高齢だからってことでそこを畳むことになって、それで、……私は行くところがなくなって」 ガクは黙って聞いている。無論、表情はわからない。 「……その日のことは覚えてる。もう二階に上ることなんて滅多になくなってた大家さんが、どうしても用があって、それで、アパートの階段を踏み外した日……私が、お墓参りから帰ってきた次の日……春分の、次の日」 父によれば、依が死んだのは正にその。 「……まだ死んでないの、コレは」 左手で固く拳を作り、ゆかりは自分の胸元を叩く。強く、激しく。 「封じ込めてた依がいなくなって、私の元に帰ってきた。……逃げるな、ってことなんだよ。償え、って」 涙の河で、世界はとうに輪郭を無くしていた。 「たくさんの人を不幸にした。だから、今度こそ、私が自分で」 「じゃあ」 強い語調にゆかりは思わず顔を上げる。 彼は、そんな彼女から目をそらさずに。 「お前のことは誰が幸せにしてやるんだ」 息が止まった。 その瞬間、雨も、土も、生い茂る木もゆかりの世界から消え去って、 いるのはただ、ガクだけになる。 それはつまり、彼がゆかりの全てだということ。 もはや救いようもないほどに、龍の呪いが成就していること―― と、当のガクはゆかりの激情などには一向に気づく風もなく、おもむろにコートのポケットを探ると薄っぺらい何かを取り出した。 ベージュに近い温かな白色をした和封筒は、周囲とのコントラストのせいでまるで光を放っているように見える。 宛名は、 「神吹……白金……様……?」 ゆかりが息を吐ききるのを待って、クルリと裏返される柔らかそうな紙の筒。 その裏面に記された差出人を認めた瞬間、ゆかりの時間(とき)は再び止まった。 たおやかな女文字は、たしかに 織部豊 と、読めた。 「と、よ、さん……ど、して……」 それはあの夏の日、永い永い血の呪いを終わらせた当主に最後まで付き従うことを望んだ女性の名。 風の便りに当主が出家したことは聞いていた。どういう形かは知らないが、きっと彼女は今もその傍らに在るのだろう。 結局ゆかりとは、二言三言言葉を交わしたきりだった。 それでもどこか吹っ切れたようなその表情は、ゆかりの胸の底にずっと焼きついていて―― 「昨日、軟派サングラスが届けに来た。お前に見せたかったそうだ」 咄嗟に手を伸ばす。しかしガクはサッと封筒を開くと逆さにして振ってみせた。中は――空だ。 呆然とするゆかりを見返し、いたずらが成功したような表情をした従兄妹はちょっと唇の端を上げてみせた。 「中身はうたかた荘に置いてきた。読みたくば共に帰れ」 「……ちょっとちょっとちょっとちょっと……」 さすがにこれは予想外の展開だった。 脱力し、しゃがみ込むゆかりの頭上でからからと笑う声がする。彼がこんなふうに感情を表すのは非常に珍しいことだったが、今はそんなことはどうでも良い。 と、未だ笑いやめないままの彼の大きな手がゆかりの旋毛にポン、と置かれる。 「いろいろあったが今は幸せ、だそうだ」 「……ちょっと……」 そんなのは狡い。今、このタイミングでそんなことを聞かせるのは。 「それがどうした。俺は手段を選ばない」 そしてどうして彼はゆかりの胸の内がわかるのだろう。ゆかりはまだ何も言ってはいないのに。 「……だって」 ぶつけるつもりだったのはその疑問。けれどゆかりの舌は、意思に反して別の言葉を紡いでいる。 「……ガクさんは赦せるの、私のこと」 目を瞑る暇もありはしない。間髪入れずに返された答えは、 「許すも何も、お前のせいじゃない」 絶対的な肯定だった。 弾かれたように顔を上げる。 食い入るように見つめるゆかりから、ガクは目をそらさずに。 「お前の言ってることはただの想像でしかない。たしかに状況からはそう推測できなくもない、しかし決定的な証拠はない」 「だ、って、それは」 「聞け」 有無を言わせない彼の瞳には、静かな情熱が燃えている。 「あの時、俺とツキタケを襲ったのは誰だ?」 つぅっとゆかりの背筋を冷たいものが伝った。彼はそういう顔をしている。 「傷ついた俺たちを助けることなく見殺しにしたのは、そして、それを指示した奴は」 彼が何を見てきたのか、その説明だけで十分だ―― なのに、そこでガクはふっと表情を変える。穏やかと言ってもいいほどに悲しげで切なげなその瞳。 「お前じゃない。それに」 ああ、その先を言わないで欲しいと、 「そもそもの発端は、俺の親達の問題だ」 ゆかりは心底願うのだけれど、 「おまえのせいじゃない」 ずっと、ずっとずっとずっと、 遥かな昔、幼い親友を亡くした時からずっと、 焦がれ続けた《赦し》がそこにあった。 それは、ゆかりにとっては神様以上のもので、そんなことを言われたら、 「…………そんなこと、言わないで」 頼ってしまう。縋ってしまう。 離れられなくなってしまう。 決壊しそうな恋情を必死に飲み込む。まだ、まだだ。 ゆかりはガクを幸せにしたいのだ。 穢れた魂を持つ身でその願いを叶えるためには、 さよならを言うしかないと腹を括ったのだ。 だから。 「……ガクさんは、……気持ち悪くないの」 「何が」 心底不思議そうな彼に食らいつく勢いで、見上げた。 彼の、優しすぎるくらいの優しさはとうに知っていることだった。 迂闊だった。 ああいう言い方では駄目なのだ。駄目だった。 たぶん、これが最後のチャンス。 「……感情を、……好きっていう感情を、コントロールされてるんだよ」 彼のアイデンティティたるそれに切り込むことが、残された道だと思った。 「私以外のひとは……もうきっと、好きになれないよ……それは、ガクさんの意志じゃないんだよ……あらかじめ、魂に刻まれて」 「知らないのか、ゆかり」 けれど遮るガクの一言、たった一言にゆかりは簡単に言葉を失う。 彼の声で呼ばれる名前はどうしてこんなにも甘美に響く―― 「人の意志が介在せられないもの」 でも、だから、 だからこそせめて彼だけは、自由に、 「人類はそれを運命と名付けた」 ああ。 「……何が起きるかわからないよ」 蚊の鳴くような声しか出せない自分を心底情けなく思いながら、それでもゆかりはあがいてみせる。だって、 「……父が言っていたの。……こうなった今、何が終わりかわからない。……元々はもちろん、互いが生きていることが前提だったはず、でも、それがこんなふうになって……だから」 歪んだ呪いは、どこまでその魔手を伸ばしてくるかしれないから。 そもそも掛け手たる神すら既に消滅し、願いの発端となったゆかりの母もこの世の人ではない。 従兄妹は強い人間だ。百歩譲って彼が《運命》を受け入れるのをよしとしても、 彼が未来永劫それに幸福を感じ続けられる保証はどこにも、ない。 「……もしかしたら、私が死んでも終わらないのかもしれない……その先に待っているのは、地獄、かも」 人が永遠を願うのは、永遠を知らぬからだ。 もしも本当に終わりがないとすれば、それは、ただの、 「馬鹿だなお前は」 そしてゆかりの命がけの憂いは、恋しい人によってあっさり一蹴される。 彼は言う。声も、瞳も、少しも揺らがせることなく。 「お前のいない天国とお前のいる地獄なら、俺は地獄がいい」 「…………っ」 絶句したゆかりはとうとう己の敗北を悟り、 「……馬鹿!ばかばかばかばかあんぽんたん!」 彼の手の内と知りながら、もう、想いの丈を叫ぶしか術がない。 涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、それでも懸命に彼を見る。 「……行かせない」 宣言は、腹の底から湧いて出た。 まるで、誰かに操られているかのように滑らかに口が動く。 「地獄になんて行かせない」 その瞬間、ゆかりの身体には光が満ち、 対するガクは、ゆっくりと笑み崩れた。 「そうだな」 そして新たに結ばれた《約束》の言の葉は、初めて会った時のように塞がれた視界の中で響く。 頬をくすぐる和毛のファー。冬の衣服の柔らかな肌触り。 「だから、二人で天国に行こう」 耳から入ってくる言葉と、それが胸に伝わって起きる振動。 頭の天辺から足の先まで幸福感に満たされて、ゆかりはただごうごうと泣いた。 そのままどの位の時間が経っただろう。 やがてそっと体を離した恋人たちは、目を射る光に顔をしかめる。 雨はもうすっかり止んでいた。急速に流れる上空の雲、隙間から伸びる天使の梯子はより力強く逞しく―― 「あ」 感嘆詞は綺麗に重なった。 視線の先、遥かな遠くに架かるのは、 「虹……」 「……ひさびさに見たな」 くっきりと夕空に映える七色は、目に見える天上の音楽。 無音の祝福が寄り添う彼らを優しく包み、いつしか二人はしっかりと手を握り合っている。 ガクは左手。ゆかりは右手。 並んで同じ空を見る、その頬は燃える太陽に照らされて―― 「そうだ」 先ほど封筒を取り出したポケットを、ガクは今一度ゴソゴソと探る。 ほどなく姿を現した濃い藍色のハンカチで、彼は恋人の顔を強く拭った。 「え、え、……それ」 「本当はこれだけで良かったんだが」 剄伝導を施したのは澪だと聞き、ゆかりの胸は一杯になる。 「こら、拭いてるそばから泣くな!!」 「……むり……」 そして視界が暗く覆われた刹那、そのせいだろうか、ゆかりの嗅覚はほんの一瞬だけ鋭さを増した。 甘く重い寺院の香りと、 華やかだけれども懐かしくもある何かの花に似た芳香。 「……どうした?」 個性の強い二つの香りはしかし混ざり合わずにスッと上に昇って、消えた。 「……ううん」 胸を締め付ける郷愁を抱えたまま、ゆかりは恋人の手を強く握る。 ちょうどいい強さで握り返されるつめたい掌。 もう二度と離さない、そう誓った。 「帰ろう」 「ああ」 古びた木戸をゆっくり開き、丁寧に閉める。 世界にはひたひたと闇が近づいてきていた。霜月の終わり、日暮れはどんどん早くなる。 それでもさっき見た虹が心に暖かな火を灯すから。 黄昏時の薄暗がりに、彼と彼女は一歩を踏み出す。 この手を繋いでさえいれば何が起きても大丈夫だと、心の底から信じられた。 長い旅が始まる予感。 それはどこまでも甘く、美しく、少しだけ哀しく、 汲めども尽きることのない、活きる喜びに溢れていた。 (2013.09.09) モドル |