闇夜の鴉のように黒い装束で身を固めた彼らが集ったのはそれから30分も経たないうちのことだったように思う。一人は夜だというのにサングラスをかけた、頬に傷のある精悍な老人。もう一人はその衣装とは対照的に輝くような白い髪を備えた、これまた随分とガッシリした体躯の老人だった。
二人とも、小春を見るとニッコリ笑った。白髪の老人は優しく頭を撫でてくれさえした。
沙夜と皐月、そして二人は少し歪な輪を作ると何やらヒソヒソと頭を突き合わせ、すぐに散開した。そして小春は皐月親子に伴われて先ほどの公園へと舞い戻った。すっかり雨の上がった空に幾つもの星が瞬いている。
奇妙なのは、右隣には手を繋いでくれている沙夜がいるのに皐月は小春の左隣からおよそヒト一人分の間を開けて歩いていたことだ。
沙夜を見上げると、やっぱり彼女は綺麗なウィンクをした。
公園についてしばらくは、《体を温めるため》と称して3人(?)で鬼ごっこをしたり石けりをしたりしていたのだけれど、やがて柔らかな電子音が沙夜の鞄の中から響き――
そして、今。
「小春!!!!」
悲鳴のような声が耳に届いた次の瞬間、小春はあたたかな体温に包まれている。
ピンピンと撥ねる黒髪が頬に当たって、小春の目から水が溢れる。
「……お、にいちゃ」
兄は無言で小春をきつく抱きしめた。
「小春……!!一体どこに、」
息を切らせながら駆け寄る父は背広の上着を着ていなかった。まだ夜は羽毛布団が必要なくらいの気候なのに、白いシャツは汗で透けている。一方、母は喪服なのにスニーカーを履いている。
何もかもが滑稽で、でも全員が真剣だった。
「こはる、」
ようやく言葉を絞り出した兄を、小春は正面から見つめた。
「お兄ちゃんは、小春のお兄ちゃんだよ」
ひくりと兄の喉が動いた。
「たとえオバケでもお兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、でもお兄ちゃんはオバケじゃないから生きてれば何とでもなるんだよ」
兄はもう一度、小春の肩に顔を埋めた。
震える背中を小春は小さな手でそっと撫でる。
「よかったな」
耳に届いた幽かな声に、小春は弾かれるように顔を上げた。しかし、今の声は父でも母でもない、若い男性の声。勿論兄のそれでもない。
それきり声は聞こえなかった。
ただ夜空を彩る星たちだけが、小さな家族を見守っていた。

***

あの日、いつから姿を消したのかという小春の問いに沙夜は澄まして
「いたよ」
と答えた。
「ちゃんと全部見てたよ、お兄ちゃんが小春ちゃんを抱きしめたのも、その後、お父さんとお母さんがそこに加わってダンゴになったのも、あとおじいちゃんがずっと小春ちゃんの頭を撫でてたのに、全然気づいてもらえなくて拗ねてたのも」
「え!」
まるで忍者のような沙夜たちの行動能力を問いつめようとしていたのに、予想外の言葉に小春の頭は真っ白になる。口を開けたままの小春を見、沙夜はニッと笑った。
晴れ上がった空に新緑がよく映えている。季節は春と呼ばれるそれから次のそれへと移りつつあった。あの夜、家族4人で手を繋いで歩いた道を、今、小春は沙夜と逆に辿っている。今日は沙夜のおすすめのケーキ屋さんに行く約束をした日だった。沙夜曰く《町外れにある隠れ家的お店》なのだそうだ。

通夜に間に合わなかった里中家は、次の日きちんと告別式に参列した。
その朝、父は哲太と小春を食卓につかせると、ゆっくりと語り始めた。
自分たち夫婦には子供ができないだろうと言われていたこと。
それでも諦めきれなくて隣町の施設の門を叩いたこと。
園長先生――武藤ナツの尽力で哲太を引き取った夜のこと(皐月の《想像》は結局、事実と寸分違わぬものであることが後に判明した)。
そして、思いがけず小春を授かったとわかった日のこと。
小春の気持ちは揺らがなかった。何を聞いても譲る気はなかった。
哲太は。
「…………俺、この家にいていいの」
そう、ボソリと呟いた兄は恐らく生まれて初めて父親の拳骨をくらった。
衝撃に目を白黒させる兄を前にした父は、きっと初めて子供たちの前で泣いた。
釣られるように兄がまた両目から涙を零し、父の隣に座っていた母もとうとう泣き出したけれど、小春だけは固く口を結んでじっとしていた。
泣くだけ泣いたその後に、兄は真っ赤な目で
「ごめんなさい」
と言った。
「わかれば良い」
と父が言った。
エプロンの裾で目尻を拭った母がお湯を沸かしに席を立った。
そうしてその日の午後、むくんだ顔で式に参列した一家は場が場であるためにことさらに目立つことはなかった。会場には大勢の大人と子供が詰めかけ、皆、泣いていたから。
「よかったじゃん」
飄々と言う沙夜は一体何をどうしたものか、いつの間にか小春の母と仲良くなっており、風薫る本日は小春の両親も公認した《デート》の日だった。どうやら沙夜が《おばーちゃん》の孫であることも両親には伝わっているらしかったが、
「あたし、言いくるめるの得意なんだよ」
真顔で言う彼女はまだまだ底が知れない。おかしな人と友達になっちゃったな、と小春は思う。今はお兄ちゃんのことで頭がいっぱいなのに。
一応の収まりを見せたとは言え、まだまだ家族の空気はぎこちないものだった。
「それはしょうがないよ」
年上の友人は相変わらず小春の表情で思っていることを読み取ってしまうらしい。
「家族は解決するものじゃなくて、継続するものなんだよ」
「カイケツ?ケイ……ゾク?」
「昔の小説家が言ったんだって、お婆ちゃんが言ってた。……一緒にごはん食べて、お風呂に入って、喧嘩して、仲直りして、仲直りできなくてもまた一緒にごはん食べて、その繰り返しが家族なんだよ」
思い切り首をひねっている小春を見て、やっぱり沙夜は笑う。
「お姉ちゃん、の、おじいちゃん、は」
「んあー?今日も元気におばあちゃんとラブラブしてるよ」
「ええと、そうじゃなくて……どんな人なの?」
あの時の声は随分と若かった。《おじいちゃん》という呼称とはかけ離れているほどに――
「えっと。年がら年中、モサッとした襟の付いたコート着て、めっちゃ細い。針金みたい。前髪が鬱陶しいくらいに長くって右目が隠れちゃってる。おばあちゃんはハンサムだって言うけど、私はそうは思わないかな。ま、でもしょうゆ顔って言えばそうかもね」
「……若いの?」
「ああ、19で死んだって言ってたし、童顔っちゃ童顔だから私と同じくらいに見えるかなあ」
そんな事実を気負い無く言ってのける沙夜も沙夜だが、思った以上の情報に小春は再び絶句する。
が、
「あ、でもね」
やはり調子を変えることはなかったが、幾分弾んだ声で友人は言う。
「最近、時々、ちゃんとジジイに見えるんだよね」
「……え?」
「おじいちゃん。や、見た目は今言ったとおりで何十年も変わらないんだけど。っていうかそう聞いてるんだけど」
三叉路を前にした沙夜は、迷うことなく一番左の道を選んだ。
「特におばあちゃんといる時、かな。ちょっと目を離した後に何かのタイミングでふっと見ると、ちゃんと年取ったジジイに見えるんだよ。背は高いまんまだけど、白髪になって、皺くちゃで」
細めの道を入ったそこは一見すると住宅街だ。道のこっち側だよと沙夜は右手を差す。一軒目は普通の住宅。二軒目もまた。
「愛の力って凄いよね」
上手く答えることはできなかったけれど、それでも小春は頷いた。
言葉にはできないけれど心の深いところではちゃんと理解できている感じがしたから。
対する沙夜は力強く頷き返して歩を進める。三軒目を素通りして、すぐに立ち止まった。
まるで絵本に出てきそうな可愛らしい三角屋根の家があった。女の子の夢を集めたような素敵な建物。ご機嫌な二人連れは足取りも軽く門を潜る。
不意に花の香りがした。母親譲りの植物好きである小春を持ってしても、それが何かはわからない。
あるいはそれは、単純に幸福というものが今、ここに、具体的な形を取って現れただけかもしれなかった。

今年の夏は化野家と里中家とで花火大会を見に行くのだと、小春たちは今から決めている。

(2013.11.22)

モドル