最初は異音としか感じなかった。閉じた瞼の表面をそっと撫で、風のように消えていくそれは少しずつ依の知っている音になった。 呻き声。徐々に間隔の狭くなる荒い呼吸音―― ガバリと身を起こし、依は両手で頭部を包む。内側からガンガンと痛むその訳はわからなかった。今自分がどこにいるかもだ。 室内には明かり一つない。唯一、窓から差し込むうすらぼんやりとした白い光が祖父を照らしていた。 胎児のように矮躯を丸め、獣のような唸り声をあげる祖父を。 「……っ」 声は出なかった。それでも祖父は振り向く。 その額に触れた。びっしりと浮かぶ玉の汗が依の掌を濡らした。 「よ、る、」 「お爺様、おじいさま」 パニックに陥った依を、祖父は震えの止まらぬ手で撫ぜた。 「だい、じょう、ぶ……っ、」 「なにが、何が大丈夫なのですか!今、お医者さまを」 身を翻して走りかけ、依は呆然とした。 今更に周囲の闇の深さに気づく。《試練》で訪れた神殿に、そこは少し似ていた。 部屋の奥――いや、入口だろうか?――は暗すぎてどうなっているか確認もできない。足の裏に伝わるのは古びて無骨なむき出しの床板の感触、ただし先般とは違いそこは砂埃でザラザラとしている。 喘ぐように光の方へ顔を向けたけれど、ただ木々が騒々(ざわざわ)とさわぐ音が滑り込んでくるだけだ。ヒトでないもの――虫や鳥や獣たちが息を潜めている、気配。 山の中なのだ、と思った。 それが一体どこの山なのかは皆目見当もつかないけれど。 「っ、お爺様、」 今一度、苦しむ祖父に駆け寄った時、依は何かに躓いて倒れた。障害物は柔らかくへこむ。 ――カバン、 ようやく闇に慣れてきた目に、それは見覚えのある輪郭を刻んだ。 祖父の鞄だ。 飛びつき、開け、中を探る。けれど、 「……お薬は」 祖父は凄惨な顔で微笑んだ。 「……あれ以上は、持って、来……れ、な、」 一際低い呻きを残して祖父は固まった。依はただ、その背を必死にさするしかできない。 「……ここは、ここはどこですか、どうしたら」 山の恐ろしさは十二分に身に染みていた。けれどここで依が助けを求めなければ祖父はきっと死んでしまうだろう。 「……覚えとらん、か」 なのに祖父は夢を見ているみたいに悲しそうな口調で、そんなことを言うのだ。 「え、僕、昔」 「おまえが15になるまでは、よぉく二人で遊んだ、のに」 依は絶句した。 最初は数を聞き間違えたのかと思った。 否、そうであればどんなによいかと、 「依……よる、祝言はまだ先じゃ」 己と同じ名前の先祖を、依はよく知っている。 だって自分は、彼女の生まれ変わりだと思われているのだ。 そんな馬鹿げたことを言いだしたのは他ならぬ、 「おまえのミヤサマがもうちょっと早うに来れば良かったが」 祖父だ。 彼女――《先代の依》の幼馴染であり、許嫁であり、 ほんの僅かな期間、夫として共に在った、祖父。 ぎゅうと身体を縮めたまま、彼は首から上だけまるで別人のような風情で明晰に喋った。 もはや痛みに言葉が途切れることもなく、 そして口調も、さながら若い男のように。 「でも大丈夫、俺は身体はこんなだが、……きっとお前の願いを叶えてやる」 瞳が牡の生気を帯びる。 「月宮の女は孕んでも力が衰えることはない……そんじょそこらのスジモノとは訳が違う」 だから。 そう言って祖父は――月宮惣一郎は、月宮依の小さな白い手を掴んだ。 「できればお前に似た女の子がいいが、贅沢は言わぬ。どんな子でも、たとえシロゴでも俺が守る。立派に育ててやる」 眼鏡の奥、黒く開いた孔のようなそこから祖父は一粒の涙を零した。 「そうしてその子が大人になったら、その時は必ずお前の後を追おう」 皺と瘤だらけの指に力が篭った。 「助けてやれなくて、すまん」 *** 祖父と祖母との結婚は、ふたりが幼い頃から決められたものだった。 男勝りな祖母と病弱だった祖父はまるで主人と従者のような関係だったのだと周囲の大人たちは伝える。 だからさぞかし祖母は嫌だったのだろうと―― けれど実際には、祖母に(平均よりはやや遅めの)初潮が来るとすぐさま二人は祝言を挙げ、 親たちが新居を整えてやろうとするのも待たずに、それまで祖母が暮らしていた離れで生活を始めたのだという。 相変わらず祖母は――《稀代の器》であるところの《月宮依》は、勝気だった少女時代そのままに振舞っていたらしいが、 実のところ祖父にベタ惚れであったのは祖母のほうだったという人もある(それは例えば依の大叔父だ。何を見たかは知らないが――)。 しかし、若い夫婦の新婚生活はほんの数週間で幕を閉じる。 赤紙が来たのだ。 祖父ではなく、祖母に。 それは、生まれたての赤ん坊が《依》と名付けられたその瞬間から決まっていた運命だった。 《出征》の朝、祖母は泣きもしなかったが笑いもしなかったという。 ただ、名残惜しげにそっと右手で平らな腹部を撫でたのが印象深かったと、祖母の弟であった大叔父は言う。 それを見て泣き崩れた祖父の――月宮惣一郎の小さな背中も。 祖父が自殺をするのではないかと、本家では随分気を揉んだそうだ。 彼は病弱だったが、どうやら《血筋》が良かったらしい――祖母の死を知らされてからすぐ、その妹と娶されたことからもそれは知れる。 ――子を為せればそれで良かったんじゃ。 悔しそうに言った大叔父も今はない。 なのに祖父は生き続けた。病気がちだったも関わらず、彼は意外なほど長命だった。年下だった前妻の弟が死に、やはり彼よりはかなり若かった後妻――依の実の祖母にあたる月宮サキという女性(だから厳密には先代の《依》は大伯母にあたるのだが、祖父は終生その呼び方をゆるさなかった)――が死んでも、ただ淡々と飯を食い、呼吸をし続けた。 この世で彼が報われることなど未来永劫ないというのに。 依を――今では陰で《生まれ変わり》とあだ名される依と初めて対面した時、祖父は病室でやはりくずおれたそうだ。 最初の一言は「ありがとう」だったと、依の母はずいぶん後になってから教えてくれた。 ――儂が、いけんかったから……ありがとう、 そうして祖父は狂った。 *** 依が7歳になった年の夏。 身内で起きた、それゆえ表沙汰になることのなかった誘拐事件はたった一日で幕を閉じた。 何処とも知れぬ山中でまんじりともせずに朝を迎え、今度こそ飛び出そうとした依を抱きとめたのは小山のような体格の叔父だった。 そこはなんと依の家からほど近い、裏山と言ってもいいくらいに近い小さな山林の最奥に位置し、今は忘れ去られた《修行場》のひとつだったのだそうだ。 しかし、 いくら近いとは言え、足腰が弱りきっているはずの祖父がどうしてそこまで来られたのかは結局わからずじまいだった。 祖父は入所していた老人ホームに併設の病院に緊急搬送され、その日のうちに亡くなったと聞いた。 食事よりも大量の薬を飲んでいた彼が何の病であったか依は知らない、 ただ、もう起き上がることすらほとんど不可能だったし、そんな彼がどうやって所員の目を盗んで抜け出したのか、 何のために依に会いに来たのか、 それだけは永遠の謎となった。 依が最後に見たのは痛みで気を失った祖父の蒼白い横顔。 せめてそれより少しでも安らかな顔で逝っていてほしいと、ただ祈った。 そして時は流れ―― 「あの、……キミ、えっと」 「ああ、田中。……月宮君だっけ」 「そうそう、あ、覚えててくれたのに俺の方がごめん。……ところで田中君、……変なこと言うかもしれないけど」 放課後の教室で、なかなか整った顔をしたクラスメートを前にして16歳の依は言葉を選びあぐねた。 が、伝えねばならない。このままでは彼の命が若干危ない。 「……ポニーテールでちょっとツリ目、で、泣きボクロのある女の子に心当たりはない?」 クラスメートは青ざめた。一歩下がる彼を見て、依はしまったと思うが、 「なに、月宮、そういうの――イキリョーとか、わかるの」 切羽詰った口調は現状を十二分に伝えていた。 後に無二の親友となる田中維継との出会いだった。 (つづく) (2014.09.18) モドル |