「どんどん食べてちょうだい!おかわり、まだたくさんあるから!」 「あ、はい、アリガトウゴザイマス……」 勢いに押され、依はなんとなくスプーンを握り直した。右隣に座る維継が深い溜息を吐く。 何の因果かあの場面をぶち壊したのは維継の母、田中千砂子(ちさこ)氏その人だった。 ――この子、ネクラでお友達なんて少ないんだから! そんな風に言われて強引に連れてこられ、あげく夕食を共にしている依だけれども、それが嘘だということは勿論理解している。 クラスにおいても維継は常に中心にいるグループの一員、対する依は《一匹狼》と言えば聞こえはいいが、単に級友たちに馴染めないだけの落ちこぼれだ。そもそもなぜ維継が依の名前を覚えていたのかも不思議なくらい―― 「やっぱり秋はカレーよね!」 「夏だろ」 にべもない息子の言葉に母は唇を歪めた。その顔が《彼女》に似ているかもな、などと依は場違いな感想を抱く。 「ていうかお袋、一年中そんなことばっか言ってるだろ」 「いいじゃない、カレーは総合栄養食よ」 「いや俺たちインド人じゃねーし」 「インド人を馬鹿にするの!?」 「してねえよ、つうか論点がずれてるだろ」 「あの」 小気味よく弾む親子の会話に依はおずおずと口を挟む。 「美味しいです」 「ほら!!」 勝ち誇ったような母親の表情に息子はみたび溜息を吐いた。 「月宮君はいい子ねー」 甘い眼差しを受け止めかねて依は曖昧にわらう。彼女が何を考えているのか、 「本当にいい子、ね」 皆目見当がつかないから。 と、維継がさっと席を立った。 「お袋は食い終わったんだろ。俺が片しとくから、もう風呂入れよ」 千砂子は軽く目を眇める。 「何よ、いつもは絶対そんなことしないじゃない」 「じゃあいいだろ、たまには。ほら、」 「ねえ月宮君。月宮……依君、よね」 「え」 滑り落ちた言葉に依は目を見開いた。 息子のクラスメートの名前くらい把握していて当然だ、 と言えるような響きはそこに微塵もない。 千砂子は微笑んだ。ほんの少しだけ違う感情の混ざった笑み。 「私、××××で働いているの」 依の頭の後ろ側で、鍵の開いた音がした。小さく、けれど、確かに。 それは依の家から近くもないが遠くもない場所にある、とある老人ホームの名前だった。 そこには病院が併設されており、自宅での介護が困難なひとびとを受け入れの対象としている――俗に特養、と呼ばれる施設。 依の祖父が入れられた、施設。 「……もしかして、祖父とお知り合いでしたか」 千砂子はゆっくり頷いた。艶のある髪(やや明るめの栗色だ)がハラリと揺れた。 「私、栄養士をしていてね。あそこには長く勤めていて……お祖父様は少し痴呆が始まっていたけれど、普段はとても紳士的な優しい方で、スタッフにも、入所しているお婆ちゃまたちにも人気があったわ」 依は曖昧な笑みを浮かべた。それは罪悪感と受け取られたらしかった。 「……私も、よく愚痴なんか聞いてもらっちゃったりして」 だから、息子に似て(いや、息子が母に似ているのか?)愛情深いらしい千砂子はそこで言葉を切った。 けれど本当に言いたいのは、きっとそんなことではないのだろう。 あの広場で名乗った時、どうして彼女が引きずるように自分を家に招いたのか。 もう、この展開から想像のつかない依ではない。 だからただ小さく頷き、全てを従順に受け入れる態度を示す。 依の家の特殊な事情など、他人ごときにわかるはずがないから。 小さな骨壷に納められた祖父を見たときの、依の気持ちなど、 「その代わり、あなたのこともたくさんお話してもらった。あなたの話をしている時が、惣一郎さん、一番嬉しそうで」 たまりかねたように維継が立ち上がる。ぐい、と母親の肩を掴む。 「お袋、もう」 しかし息子の手を振り払うように、千砂子は。 「お祖父様、あなたの名前、ずっと呼んでた。……最期まで」 振り絞るように言って、食い入るように依を見た。 長い長い沈黙の後、依は静かに頭を下げた。 「田中君のお母さんのような方が、祖父を看取ってくださって……もう10年も経つのに覚えていてくださって、祖父は幸せだったと思います」 それは千砂子の望む答えではなかっただろう。 それでも依の肩が小さく震えているのを見て、彼女は慌てて謝罪の言葉を述べ、 けれど当然、その日はそれでお開きになった。 *** 「もうここでいいよ」 「駅まで送るって」 頑ななクラスメートの横顔。依は困ったように笑ってみせたが、彼は目もくれない。 「俺、女の子じゃないんだしさ」 「月宮、細っこいし間違えられ……あ、」 ひたと口を覆った維継と目が合う。思わず自然に笑みが零れる。 「……月宮……?」 今、自分は酷い顔をしているのだろうなと思った。 「ご、ごめ」 「俺、女顔かなあ?」 放った言葉は闇に吸い込まれるように消えていく。 「え、いや、ちが」 「俺、祖母に瓜二つなんだってさ」 「そ、そぼ……?」 「ホントは大伯母」 維継はますます訳がわからないという顔をした。街灯に照らされて長く伸びる影が依の足元にも絡まっている。 ほどけないかな、と思う。 「拝み屋ってわかる?……わかんないよね。いわゆるレーノーシャだよ。祈祷、口寄せ、呪い返し――その他怪しげなことなんでも承ります、みたいな」 もちろん維継は三つ目の職能に敏感に反応して、けれどすぐに屹と顔を上げた。やっぱり彼は男前だ。 「……それは、月宮の家がってことか?」 「ご名答。ただ本当の本当はもっと別の役目のある家系で、ま、それは表沙汰にはできないから。……俺はさ、そっくりだったんだってさ、祖父の最初の奥さんの……依って女性(ひと)に」 「……よる」 維継が目を見開く。驚かれたそのこと自体に救われたような、さらに深く傷ついたような、複雑な感情が胸の内に渦巻くのを依は止めることができない。 「そっくりっていうか……祖父がそう決めたんだけどね」 「は」 誰にも話したことはなかった。だからきっとそのせいだろう。 「あの人が、俺を、彼女の生まれ変わりだなんてことにしたから……いろんなものが、狂ったよ。いろんなものが、いろんなひとが……あのひと自身も」 目の奥が熱い。鼻の奥が痛い。どうすることも、依にはできない。 「……じゃあ、月宮、は」 「俺は何でもないよ。何でもないし……何にも、なれない」 上を向いた。街の灯に紛れて星はあまり見えない。もっと季節が進めば大気ももう少し澄むだろうか。 こみ上げるものを必死に飲み下そうとしたその時、 どさり、と何かがぶつかってきて依はたたらを踏んだ。 「え、え、うえ、」 背中に回された腕は細かったけれど、思いの外力が強く、 「あ、ど、たなか、くん、」 依よりも少し背の高い彼が身体を丸めているせいか、整髪料らしき香りが鼻腔をくすぐった。 「ごめん。……お袋も、…………俺も」 「……やめてよう、」 驚いて、気が抜けて、自然に笑いが漏れて――頬を温かな液体が伝うのを感じた。 「俺、そっちの気(ケ)、ないよ」 「ばかやろう俺だってねえよ」 鍵盤にでも添えたらさぞ映えそうな長い指で、維継は依の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。 「今日のこの心の傷が癒えたら、真っ先に彼女作ってやる」 「うわあ、最低」 「健全な男子高校生が考えることなんつったら、ひとつだろ」 「……うわあ……最低……」 「いや今絶対おまえのほうがひどい想像してると思う」 真顔で突っ込みを入れた維継の表情がおかしくて、でも泣いている自分が恥ずかしくて、依は横を向いた。そんな自分を見た維継は何も、 「……ありがとう、本当に。今日は。……おかげで、やっと眠れる」 言わないでくれたら良かったのに。 おかげで依はまだしばらく情けない姿を彼に晒し続けなければならないのだ。 遠くに見える駅ビルの明かりが、雨の日のガラス窓に映ったそれのように滲んでいる。 *** 依と維継が通った高校は、二年次から三年次に上がる際のクラス替えというものがなかった。だから彼らはそれからおよそ一年半、同じ教室で過ごした。 維継と付き合うことにより、依の周りには少しだけ人が増えた。維継の方は相変わらず女生徒に呼び出される日々を送っていたが、それも徐々に減った――彼らが同じ大学を目指していると周囲に知れたところで(それはかなりの偶然の結果だったのだが)、ほとんど完全になくなった、のを知って維継は顔を青くした。依は笑った。 俺はホモじゃねえよ、と喚く親友を涼しい顔で眺めているといつの間にか何だか熱い視線を向ける女子達に囲まれていて、それは少しだけ居心地が悪かったけれど。 依は概ね幸福だった。 その穏やかさはそれまで縁のなかったものだからこそ彼の胸に深く刻まれることになって―― 「すごいの憑けてるね」 まるで以前の自分のような――表出の仕方は大分違えど――《彼女》を放っておけなかったのも無理はない、と依は後に思うことになる。 「でも俺は大丈夫だよ」 彼女を本当に《救えた》のか、手を出さない方が良かったのか――それだけは最期までわからなかったけれど。 「俺は、死なない」 出会った時に掛けた《祝い》の言霊を裏切ってしまったことが、ただ一つの心残りだった。 (つづく) (2014.09.19) モドル |