「……で、これが、何だって言うんですか」
わずかに頬を紅潮させた年若い編集者は、挑むように僕を見つめた。
思わず苦笑してしまったのが良くなかったらしい。
「いや、ごめん、違うんだ」
そういうところが可愛くて仕方ないのだ、なんてまだ言えるはずもない。いかんせん物事には順番というものがある。
「……二次創作、だよ。前に見せたろ?『月光』」
机の隅に置いていた、読み込んで開き癖の付いた単行本を差し出す。彼女は口を尖らせた。
「……これの……『月光』の登場人物は、依とかゆかりなんて名前じゃありません。……そもそも《化野ゆかり》は作者でしょう、『月光』の」
「ああ、読んでくれたんだ」
「だって」
彼女の潤んだ瞳から目をそらす。
「先生が、お好きだって言うから……でも私は好きじゃありません」
「そう、残念」
「だってこんな、ありきたりな恋愛小説……他の作品も幾つか読みましたが、……あまりに凡庸な作家です。大衆に迎合した、エッセイに毛が生えたみたいな……今ではもう忘れ去られた作家」
「そうだね」
《化野ゆかり》は――もう50年も前に亡くなった、ある女性作家の名前だ。
僕が高校生の時分に古本屋の片隅で《それ》を見つけた時、もちろん彼女は既にこの世の人ではなかった。

《それ》は燻したような箔のきらめきが美しいシンプルな装丁で、
『月光』というありきたりなタイトルが冠されていて、
ごくごく平凡な高校生だった僕が、その時何に惹かれて手を伸ばしたのかはもう覚えていない。
だってその瞬間からすら、もう20年以上立っている。遠い遠い昔の話だ。
ましてや彼女が生きていた時代のことなど。

――化野。

そっと、生まれたての雛鳥を手で包むような調子でそっと、《彼女》の名前を口に出す。

《かつての僕》――月宮依という名を与えられた青年にとって、かけがえのなかったその名前。

「え?」
瞳の美しい担当編集者は、小首を傾げて僕を見た。その様はちゃんと横目で捉えている。だから僕は明後日の方向を向いたまま、彼女の疑問に答えることができる。
「先生、今何かおっしゃいました?」
「いや、……でも結局、直木も取ったんでしょう、化野さんは」
「直木賞……『縁(えにし)』ですね。『月光』の発表から数年後でしたか……たしかそう、人間と幽霊の異類婚姻譚……でもあれも荒唐無稽な、設定だけで売ったような……」
彼女――僕よりも一回りと少し年下の、(僕から見れば)学校を出たばかりの編集者――は、そこで不意に口を噤むと俯いた。
彼女がそんなふうにするところは、仕事場では見たことがない。
慌てた。
「え、えっと、十和田さん、」
「せんせいは……せんせい、には、」
涙声は隠しようもないのに、彼女は声を震わせながら、まだ虚勢を張る。
「……この作品の、……お書きになった作品の、《ゆかり》みたいな方がいらっしゃるんだって……そう、仰りたいんですか」
「へ?」
間の抜けた声を窓から吹き込んだ風がさらっていく。晩春の夕暮れに相応しい甘く、少しだけ重い香り。
一方、年若い編集者はぐいと目元を拭い、顔を上げた。でも鼻の頭も目も真っ赤だ。
「だったらはっきりそう仰ってください!!」
悲鳴のような声に、僕は完全に出方を間違えたことを知る(だって今も昔も色事には慣れていない!)。
「わた、わたしは……ほんの子供の頃からの念願が叶って担当させていただいた、ずっとずっとファンだった、先生に、こんな、気持ちを、抱くことは罪なんだって……わかってます、なのに、言ってしまって、申し訳、なかった、です、けど」
あの頃の――まだ世の中のことなど何もわかっていなかった《彼女》や《俺》よりは年上の、
けれど今の《僕》から見ればまるで姪か何かのような彼女は、懸命に言葉を継ぐ。
「だからって、こん、な、」
そのひたむきな姿がどんなに僕の胸を打つのか、きっと彼女は知らないのだ。
だから、僕は。
「…………せん、せい?」
「……君はまだ若いね」
普段ならこの類の言葉には激しく反発する彼女は、しかし微動だにしない。
なんとなれば、今、彼女は僕の腕の中にいるからだ。
作家と担当編集者として出会って一年――初めての、抱擁。
一般に《個人的な関係を結んではいけない男女》である――でも、その程度のことで罪だとか何とかいう言葉を使ってしまう、あまりにも幼く純真な、彼女。
「君よりずっと年上なのに、こんなふうにしかできない僕も僕だけれども」
先ほど、《彼女》の名前を口に出した時のように彼女の髪に触れる。すべすべして何だかいい香りがした。
「……僕たちはまだ出会ったばかりだ」
年甲斐もなく気が遠くなるのを必死に抑えて、僕はそんな感慨を告げる。
彼女と僕が重ねた時間はとても短い。
少なくとも、僕が呪縛されていた期間よりは、余程、短い。

あの薄暗い古本屋の片隅でありふれたタイトルの単行本を手にとってから実に30年近く、
僕は《彼女》の幻影から逃れられなかった。

叶わなかった運命の女性、
けれどそれなくしては《俺》の人生はあり得なかった女性。

だから僕は作家になった。

《彼女》の影を追うために。

今となっては誰も知ることのない話だ。
今、僕が彼女に読ませたこの物語のように。

腕の中のぬくもりは逃げるなど思いもよらないようで、僕は理性が激しく揺さぶられるのを懸命に抑えている。
「君が何に怒るか、何を嬉しがるか……僕はまだほとんど知らなくて、だから、それを知りたいと思う」
彼女がひくりと身をこわばらせた。少し、傷つく。
それでもあの日の彼女の勇気に敬意を表して、僕はめげずに言葉を紡いだ。
何せ作家だ。きっかけはどうあれ。
伝えたいことがあるならば、言葉を使うのが僕なりの流儀だった。
「……この話を書いたのは……知っておいてほしかったんだ、君に」
姪のような年齢の彼女に想いを告げることなんて、できっこないと思っていた。
まだ未来が無限に開けている彼女の自由を、彼女の幸せを、
僕が奪うなんてできないと、
「……今、僕は悩んでいる。それはもう、日々悩んでいる。……仕事上の重要なパートナー、しかも綺麗で、気立てがよくて、引く手あまたな若い女性に好きだと言われて……僕もそうだなんて、言ってもいいのかって。……僕なんかが君を幸せにできるのかって」
声にならない声が胸のあたりからしたので、僕はそっと縛めをゆるめる。
目を丸くした彼女、青みがかった美しい白眼のふちにまた無垢な水滴が溜まる。
「でもね、……わかってもらえないかもしれないけど……君に気持ちを伝えてもらえて、気づいたんだ」

互いのさだめに囚われて、気持ちを告げることすらできなかったあの頃と、今。

「そんな些細なことで悩める今が、どれだけ幸せなのかって」

長い髪を緩くまとめたシニヨンがトレードマークの彼女は、
きっと《彼女》の生まれ変わりではないだろう。
そのくらいは今の僕にもわかる。
もはや霊能など欠片も持ち合わせていない、僕にも。

だからこそ、やっと僕は、

「救われたんだ」

僕の言葉の半分も、彼女は真実をわかってはいないと思う。
それでいいのだと、やっと思えるようになった。
「せんっ……せ、」
と、腰のあたりがギュウと締まった。咳き込みかけて、ようやく止める。
「わた、し、……せんせい、の、そばに、ずっと……、います、どこにも、いきま、せん、し、いかせま、せん」
「……ありがと」
「ちゃんと、みとり、ます」
「……おいおい、気が早いな」
「せんせ、を、ひとりに、しません」
殺し文句に僕の目頭まで熱くなる。
ごまかすために、艶やかな黒髪にもう一度触れた。
顔を上げさせるのはまだ早いだろうか?

今や職業作家たる僕が手遊びに(でもこの上なく真剣に)書いた、中途半端に長い小説のラストシーンのように、今、愛しい人が泣いている。
だから僕は彼女を優しく抱きしめて、

でもこれが本当に最後だから、と思って、

今はきっとどこかの別の空の下にいる、

幸福な君に語りかけるのだ。

――ありがとう。

僕と出会ってくれて。僕を大切に思ってくれて。
そして、

――またいつか。

どこかで会おう。
たとえ互いが互いをさっぱり覚えていなくても、
魂は共鳴するはずだ。

そうしてまた真っ新なページから、物語を紡いでいけばいい。


(2014.09.20)

モドル