柔らかな風が心地よく頬を撫でる。 午後2時。日はいまだ高く、ちぎれた綿飴のような雲を見ていると眠たくなってくる。 いけない、と化野(あだしの)ゆかりは頭を振った。目的地はもうすぐそこだ。眠気覚ましに二、三度顔をはたくと、すれ違った若い女性に訝しげな視線を投げかけられる。 おや、近所の公園でよく見かける人かもしれない、と思い、しかし振り向いたときには既に女性の姿はない。大方、すぐ後ろの路地にでも入ったのだろう。この町は妙に入り組んでいて、四辻や行き止まり、子供しか通れないような細い道も多く、越してきたばかりの頃はずいぶん難儀したものだった。そんなことを思い返しながら、ゆかりは再び歩みを進める。 まっすぐ前を見つめる瞳はあかるい。顔立ちは全体に柔らかな曲線で構成されており、優しげな雰囲気をたたえている。肩口で切り揃えた黒髪が彼女を実年齢より幼く見せる。 ゆったりしたデザインの白シャツにクロップドパンツ、ショートブーツ。胸元に下げた小さながま口財布はたいていどこででも人目をひいてしまい、少しだけ居心地が悪くなるのだけれども、なにしろ荷物を持つのを厭う主義なので仕方ない。その姿を、かつて親友は《家なき子スタイル》と呼んでからかったものだった。 陸橋を渡る。何本もの線路が左右にはしり、それは目視できない彼方まで伸びてゆく。駅構内を突っ切ったほうが早いのかもしれないが、あの喧騒に身を投じるにはいささか勇気が要った。まして今日は日曜日。もちろん、ここは新宿だ渋谷だといった大都会とは比べものにならないほど静かで落ち着いた町で――前述の親友が初めて彼女の家を訪れたとき、彼は開口一番、ここが東京を名乗るのは詐欺だ、と言った――なるべく長く住み続けられたら、と思う。 橋の真ん中で立ち止まる。空が広い。視界には一両の電車も見えなかった。ただただ伸びるひとすじのレール。草がまばらに生えている。その脇に女が立っている。こちらに背を向けて、今日も立っている。 目指す店はそこから5分ほど歩いたところにあった。 西川不動産。墨痕あざやかな看板は、たぶんかつては白かった。黄ばんだ貼り紙にはこちらもみごとな筆さばきで「皆様のご愛顧で五十年!」との由、しかしこれもいつ書かれたものやら見当をつけがたい。この近辺で最もふるいことは間違いなく、学生向けの物件を多く手がけているようだ、とは先週のリサーチから導き出した答えだ。ガラス戸ごしに中をのぞくと、禿頭の老人が二人、何やら熱心に話しこんでいる様子。ならばまずは、と表に貼られた物件情報を眺めてみることにする。 西咲良山駅歩く13分、2F南向き、賃35000円、礼なし、敷金2. 咲良山駅歩13分、地デジ対応、風呂ナシ、賃40000円、礼金なし敷2. 西咲良山駅バス8分、二階角、エアコン付、P無料(軽)、賃30000円、敷2、礼金ナシ めぼしいのはこのあたりか。知らず眉間にしわを寄せ、ゆかりは軽く首をかしげた。考えるときの癖だ。3万円代におさめられればそこそこ貯金もできるはず。バス8分はちょっと遠いか、いやこれを機に自転車を……悩む彼女の目のはしに何かがひっかかった、気がした。 今、信じがたいものが見えたような。 こくりとつばを飲みこみ、おそるおそる視線を移す。 見間違いではなかった。 西咲良山駅徒歩10分、二階、トイレ・風呂共同、賃10000円。 1万円。 破格の値段を舌の上でころがした次の瞬間、ゆかりは勢いよく開き戸を横に払っていた。びくりと肩をふるわせて振り返る老人の片方は、古風な銀縁眼鏡とふくよかな丸顔が印象的な好々爺。残る一人は、十年ほど前(ちょうど関西で大きな地震があった頃だ)、ブラウン管の向こうでよく演説をしていた政治家に似ていた。顔立ちではなく、ふさふさと長いその眉毛が。 ふたつの視線を正面から受け止め、あくまで朗らかにゆかりは言った。 「表に出ていた≪うたかた荘≫っていう物件の情報を見たいんですが」 がたた、と音を立てて銀縁眼鏡が立ち上がった。なぜか怯えているように見える。眉毛のほうは瞬間、目を見開きすぐに両の口角を上げた。その瞳に光が宿るのを、ゆかりはやや上気した心持ちで眺めていた。 「はあ、作家。またすごいねそりゃあ」 「いえ、全然。まだまだ駆け出しです」 眉毛の老人は十味(とみ)と名乗った。穏やかな陽光の下、並んで歩く。十味はやや足早だ。せっかちな性質なのかもしれないと、数分前の出来事を回想しながらゆかりは思う。 ひとめで乗り気とわかる客に、店主――銀縁眼鏡のほうだった――は複雑そうな表情を浮かべた。口を開け、閉め、しばしばと目をまたたかせる。と、 「幽霊屋敷だが大丈夫かね」 不穏な言葉がその隣に座る人物から発せられた。視線を向ければ面白そうにこちらを見つめる黒い瞳。 「悪いモノではないんですね?」 「ああ、まあ、な」 「じゃ、問題ないです」 老人は軽く口笛を鳴らした。 「あんたなかなか肝が座っとるね」 「貧乏金なしなので」 それを言うなら暇なしだ、と彼は笑い、何か言おうとした店主を制してゆかりの横をすり抜けた。開け放しの戸をくぐり、振り向く。 「とりあえず見てみるか」 返事も待たずに歩き出す彼をゆかりは慌てて追った。戸を閉める瞬間、まだ口をもごもごとさせている店主と目が合った。軽く頭を下げると、好々爺はあきらめたように軽く手を振った。 「売れっ子じゃないのかい」 「ヒヨッコです」 「はは、それで金なしか。にしたって、あんた平気なの?」 コレが、と胸の前で両手をだらりとぶら下げる十味に、ゆかりは笑う。 「父がいわゆる怪奇モノを書く作家で、妖怪図鑑が絵本がわりみたいな家だったので。あと20歳頃から《見える》ようになったので、なんだかもう生活の一部ですね」 十味の目の色がすこし変わった。 「……そうか。なら、うん、問題ないかな」 路地を曲がる。車がやっとすれ違えそうな道幅の両側に民家とちいさなアパートが立ち並んでいる。ゆかりは駅の反対側に住んでいるので、このあたりはとんと土地勘がない。だが静かで住みよさそうなところだ、と思った。 駅といえば。 「そこの、西咲良山駅の陸橋の下なんですが」 十味はああ、とうなずいた。 「アレはなあ……ワシがこっちに家買った頃にはもういたから……少なくとも30年がところ立ちっぱなしってことになるなあ」 「そんなに」 「何を思い残しているんだか……明神に声をかけさせたりもしたんだが、聞く耳持たんとはあのことだ。こっちを振り向きさえしない。もしかしたら聞こえてないのかもな」 憐れなことだよ。老人はすこしだけしんみりとした調子で《彼女》についての説明を結んだ。 橋の下の《彼女》。ゆかりがその存在に気づいたのは、幽霊のたぐいが見えるようになってからのことだったから、越してきて1年ほど経った頃だったろうか。長い黒髪に白いワンピース、という典型的な恰好からその正体に思い至るには少し遅れた。あろうことか彼女は、幾本ものレールの間、人が立ち入れば大騒ぎになる位置に棒立ちになっていたので。それがまさか死人などとは思わず、一瞬で血の気が引いたゆかりは助けを求めようと橋の上で右往左往し、何かあったのかとたまたま通りがかった若い巡査に声をかけられ、はたと気づいた。心配そうに自分を覗き込む彼には、どうやらあの女性が見えていない。折しもホームに滑り込んできた電車の運転手は、顔色一つ変えていない。そして、轟音をたてて奔る列車のすぐ脇にいた彼女の髪もワンピースの裾も、そよともはためいてはいない。 結局、勘違いでしたと謝るゆかりに彼は何か言いたげな顔をしたけれども、綺麗に一礼して去っていった。その様子から、自分のような人間はときどきいるのではないかとゆかりは思った。 しかしながら。 「みょうじんさん、とは」 「ああ、これから行くアパートの管理人、兼≪案内屋≫さ」 「あんないや」 「一言で言やあそうだな、霊の成仏・交渉役、そして霊戦闘のエキスパート。この世をさまよっている魂には成仏の手助け。聞く耳持たない悪霊は分解して大気に返す」 「…………お払いみたいなことですか?」 「《その上》だな、手段としちゃあ」 「……なるほど」 よくは理解できなかったが、とにかく凄い人らしい。どんな人だろう、とゆかりは想像をめぐらせる。筋骨隆々、天を衝くような大男だろうか。それともどこぞの陰陽師のように、眉間に皺を寄せた芥川龍之介のような風体なのだろうか。しかし、常日頃から趣味と実益を兼ねて怪談蒐集に余念のない彼女だが、霊を分解するだなんて話は聞いたこともなかった。 目の前に三叉路が見えてきた。 「一番左だ、そこ入ったらすぐ」 言葉尻にかぶせるように、甲高い電子音が閑静な住宅地に響き渡る。おそらくどの携帯電話にも内蔵されているであろう、メロディも何もないただの呼び出し音。ゆかりは慌ててポケットを探ったが、自分のそれはきちんとマナーモードに設定されていた。ということは、 「おお、すまんワシだ。……ん?息子だ」 ピ、と通話ボタンを押す手は淀みなく、彼がそれを使いこなしていることが伺えた。 「もしもし?……なーんだモモちゃんかい」 十味の声色が一変する。ふさふさの眉も目尻もこれ以上ないというくらい下がり、心なし周りの空気の色まで変化したように思える。お孫さんだな、とゆかりは思い、礼儀を持ってそっとかの人から視線をずらしたが、あまりに微笑ましい光景に口元を緩むのを抑えられない。 「何?動物園?そうなの、ゾウさん見たの、よかったねえ。え、おじいちゃんにお土産買ってくれたの、そりゃありがとう……っと、」 十味がこちらを向く気配がしたので視線を戻す。送話口に掌をあて、若干気まずそうな顔をした彼に、嫌味にならない程度に笑顔を返す。 「その、そこ入って道路の右側の四軒目だ。看板も出てるし今日は明神いるはずだから。ワシもすぐ追っかけるから、その、すまんが」 「了解しました」 おどけて敬礼を返すと、孫に弱いらしい老人は苦笑した。 >>> |