一軒目、二軒目、三軒目までは普通の民家。ゆかりの実家近くにも立ち並んでいるようなごくありふれた二階屋だ。スレート葺の屋根になんとなく懐かしさを覚える。 「さて、四軒目はと……」 呟いた言葉は口中で溶けた。 年季の入った一枚板の看板にはまごう事なく「うたかた荘」の文字。だから間違いはあるまい。それでもたいていのことには動じない彼女がほんの一瞬怯んでしまう程度に、その建物は異彩を放っていた。 古色蒼然、という熟語が脳裏をよぎる。いや、そんな格式ばった表現では生ぬるい。一言で言えば、ボロい。 本来は茶色であったろう板壁は、風雨にさらされ続けた結果だろう、全体に黒ずんでおり、ところどころ補強のあとが――まるで漫画に描かれるような薄板二枚のバッテン印でもって――見える。各部屋のベランダに付属している手すりは錆びと塗装の剥がれが目立ち、布団を干すのが若干ためらわれるほど。そして前庭には、その手すりに届きそうなくらい伸びた木、木、木。植物に明るくない、だいたい桜とそれ以外くらいしか区別のつかないゆかりには何という種類なのかさっぱりわからないけれど、どれもこれも子供が木登りに使いそうなくらい立派な胴回りをしている。これだけの物が育つほど長いあいだ、この建物はここにあり続けているということだろう。30年、いや、50年か。 たとえ事情を知らない人間でも、「幽霊屋敷」の四文字を思い浮かべそうな、《いかにも》な佇まい。 けれど。 なぜか慕わしい、と思った。 懐かしい、とはすこし違う。今住んでいるアパートも大概古いがこことはまた雰囲気が異なっているし、生家は前述の通りスレート葺の一軒家だ。ゆかりの今までの人生においてコレに類する建物で寝起きした経験はないはずで、だからむしろ今、彼女は新鮮なおどろきをもってここに立っている。 にも関わらず、そこここに見受けられる住人の痕跡――ていねいに手入れしてある玄関脇の花壇や、庭の物干しに掛けられた布団――が、なぜかたまらなく愛しい。 こんな経験ははじめてだ、とゆかりは思った。 もしかしたらこれが縁というやつなのかもしれない。 ちいさく深呼吸して、正面を見据える。 はじめまして。なんだかよくわからないけど、私はあなたをとても気に入りました。 小さな建物に心の中で挨拶をした次の瞬間。 まるで返答のように、もの凄い轟音があたりに響いた。 何が起きたのかわからなかった。気がつけば目の前はもうもうとした土煙に覆われており、山中で濃霧に巻かれたときのようにほんの数メートル先すら確認することができない。事態を把握するべくゆかりは手で何度か空を掻いたが、文字通り無駄なあがきだった。落ち着こうと深呼吸をこころみ、まともに砂を吸い込んでむせる。しかしかえってそれですこし落ち着いた。 十味は無事だろうかと首を巡らせた時。 「今日という今日は許さん……」 ずいぶんと時代がかった台詞が聞こえ、ゆかりは顔を正面に戻した。 低音がよく響くいい声だ。 視界はすこしずつ晴れてきていた。 まず目に入ったのは暖かそうな濃茶の布地。次いで、思わず触りたくなってしまう、柔らかそうなベージュ色の毛束。ゆかりは長毛種の猫を思い浮かべたが、砂埃が落ち着くにつれ、それは冬物のコートとその襟だということがわかった。暑そうだな、と頭の隅で思う。今年は桜の咲く時分になっても肌寒い日がつづいたが、さすがに先週、ゴールデンウィークの最終日にコート類をクリーニングに出したばかりだ。 襟の位置は見上げるほどに高く、その上に鎮座する艶のある黒髪は長めのショートカットで、ひとすじの乱れもない。 「マイスウィートの手料理を残すなんぞ万死に値する!」 なおも古風な口調で言い募る男の向こうから何やら声が聞こえたが、その意味を把握する前に彼はぐいと両腕を上げ――その右肘が、それはもう見事なくらい、ゆかりの鼻にヒットした。 男が勢い良く振り向く。さらさらした髪がきれいな軌跡を描くのに見とれる余裕は、なかった。血こそ出なかったものの、それは普段机にかじりついてろくに出歩きもしない物書き風情にはあまりにも縁遠い痛み。ゆかりは何か言おうと思ったが、じんじんと大きくなるそれを抑えるように、手で患部を覆うので精一杯だった。 まさか自分の後ろに人がいるとは思いもしなかったらしく、男は瞳孔がひっくり返らんばかりに目を見開いている。その手から何やら大きな物体が落ちた。木槌のように見えるが、それにしても冗談のような大きさだ。あんなものを振り回せるのは特撮映画か少年漫画の登場人物くらいだろう。さては鼻だけでなく頭まで打ってしまったか。己の視覚をひそかに疑うゆかりの頭上から、地を這うような低音が降ってきた。 「お、」 お? 見上げれば、かの人の顔色は白を通り越した土気色。木槌(幻覚でなければ)を手放し、自由になった両の手は小刻みに震えている。まずい、とゆかりは思う。いくらこういう場合、加害者のほうが動転しやすいとはいえこの様子は度を越している。とにかく落ち着かせなくては。痛む鼻も放り出し思わず手を伸ばした彼女をきつく見据えて、四白眼の男は絞り出すように言葉をつづけた。 「俺に……さわれる?」 頬をくすぐる和毛の感触に我に返る。 こそばゆいその感覚は、まるで長毛種の猫を抱きしめ、頬ずりしているときのようだった。だがこんなところに猫などいない、いなかった。記憶の糸をたぐるように、ゆかりは今までの出来事を反芻する。自分は今日、ひさびさの休みに新居を探してはるばる駅の反対側まで出て来たのだ。そこで元総理似の(眉毛を持つ)老人に出会い、あれよあれよと言う間に倒壊寸前の木造アパートにたどり着いたと思ったら、何か、地鳴りのような音が響いて。土煙が晴れたら男が一人、彼女の前に立ちはだかっていて。 そう、猫のようだと思ったのは、彼のコートに付いていた襟のことだ。 ということは? 己が今、自分に肘鉄を食らわせた男の腕に抱きすくめられているのだと理解するまでには、さらに数秒を要した。もしかしたら数十秒だったかもしれない。 聴こえるのはただ自分の呼吸音と、耳の内側で軍靴のように響く心臓の音。 内側? そしてゆかりは疑問を抱く。自分の置かれている状況に反応することよりも先に。 これだけ密着しているにも関わらず、彼の搏動が伝わってこないことに。 頬に押し付けられている胸に、背中に回された腕に、あるべき温度を全く感じられないことに。 さっき彼は何と言った? 「明神さん!ガクリン!もういい加減に、」 思考をさえぎったのはやや高い女性の声だった。びくり、と男の肩が跳ねる。 「しなさ……い……?」 声は尻すぼみに消えた。いかにも不思議そうに語尾の音が上がる。ゆかりは顔を上げようとしたが、相変わらず上半身ががっちりホールドされているのでもがくだけに終わった。 「な、ガク、誰だそれ」 「大丈夫か姉ちゃん!」 知らない男性の声と十味の声が二重奏をかなでる。ゆかりは再び腕から抜けようと試みたが、彼女を縛る輪は石になったかのように動かない。 「えっと、ガクリンは何してるのかな……?」 最終的にいましめを解いたのは、遠慮がちに投げかけられた先ほどの女性の声。 ひかえめなその問いから数えることたっぷり10秒後、男はゆかりを文字通り放り出し(受け止めてくれたのは十味だった)、自身はと言えば地面にめり込む勢いで女性――まだ高校生くらいの少女だった――に、それはそれは綺麗な土下座を披露したのだった。 >>> |