「すみませんでしたっ!!」
白髪(しろがみ)の青年は、右手でコートの青年の頭を押さえつけるようにしながら自らも額を床にこすりつけんばかりにひれ伏した。困ったのはゆかりだ。
「いえ、そんな、頭を上げてください」
「いえいえ、そんな!せっかくのウチの貴重な入居希望者を、じゃなかった一般の方を巻き込むなんて……この、」
バカチンが!
すっかり恐縮しきった様子の青年がその右腕にぎりぎりと力を込めるので、ゆかりはすっかり途方に暮れてしまう。
ひと騒動が去り、一同が落ち着いたのは《うたかた荘》の一階、玄関を入ってすぐの共同リビングなるスペースだった。午後3時。ソファに座るゆかりと十味の前に、青年二人が土下座をするというシュールな光景が繰り広げられている。
やはり若干古めかしい言い回しをする彼が、噂の《明神》なのだと言う。たしかに標準よりはややがっしりした体つきと言えなくもないかもしれないが、爽やかな好青年ふうの容貌にゆかりは驚いてしまった。ひとつだけ人と違うところがあるとすれば、染めてもこうはいかないだろうと思うほどに白い、輝くように真っ白い髪。
「いやいや、アンタがされたの立派な痴漢行為よ?もうちょっと危機感持ったほうがいいんじゃない?まあアタシには関係ないけど」
吐き捨てるように言ったのは、傍らの中空を浮遊している少女。袖に炎のような模様の入った巫女服を纏い、頭髪は綺麗なピンク色で、両側頭部からは同色の長い羽が生えている。鳥のそれではなく翼竜のようなそれから彼女のルーツは測り難いが、ともかくいわゆる《幽霊》のたぐいであることは間違いないようだ。何しろ浮いている。そして、
「あの、もう一度試してみてもいいですか……?」
遠慮がちに問いかければ、
「無駄だと思うけどね」
少女はすっと左腕を差し出した。
ゆかりはその手の甲に自身の右手をそっと重ねるようにし、
「あ……」
それはあっさりとすり抜ける。
少女は肩をすくめ、身を翻したかと思うとすこし離れてこちらの様子を見守っていた異形の集団に戻った。少女の他には三人。一人はビロードのような黒く長い獣の耳を持ち眼鏡をかけた男性、一人はごわごわしたたてがみに頭から背中まで覆われた体格の良い男性、残る一人はロシアの人がかぶるようなふかふかした帽子をその頭にちょこなんと乗せ、その両サイドから太い角を生やしていた。最後の一名だけは男女どちらとも判別をつけがたい蠱惑的な美貌の持ち主で、ゆかりとしてはその性別がちょっと気になるのだけれども、ともかく群れに帰り着いた少女が当然のように獣耳の男性を蹴り飛ばして彼の隣を陣取るので、あまりにもわかりやすいその人間関係に小さく笑ってしまう。
「ガク、ちかんなの?へんたいなの?」
一方、あどけない声で聞き捨てならない言葉を放つのは赤いワンピースを着て髪を一つに結んだ幼い少女。と、床につくほどに長いマフラーを巻いた小柄な少年がその口をふさごうと慌て、それを見た横に立つ少年(金髪で折れ曲がったバットを持っている。マフラーの彼よりすこし背が高い)は、いかにも大儀そうにため息をついた。白髪の青年、もとい明神を除く彼らの全員が幽霊――いや、ここでは《陽魂》と呼ぶらしいのでその流儀に習おう、《陽魂》であることはすでに確認済みだ。先ほどのように試してみたが、誰ひとりとしてゆかりの手を受け止める者はいなかった。
出会い頭にゆかりに抱きついた《ちかん》以外には。
「……かった」
《ちかん》――犬塚ガクと名乗ったコートの青年が何か呟いた。続きを促すように覗きこむと、彼は心もち目をそらしながらもはっきりした口調で言った。
「驚かせてすまなかった。鼻は無事か」
「あ、えっと、はい、無事です」
突然の謝罪になんとなく慌ててしまい、ゆかりは無意味に両手を上げてひらひらとさせた。その顔の中心部をじっと見つめ、ガクは重々しくうなずき、長い指で横に座る男を指した。
「悪いのは全部こいつだから」
「何でそうなるんだよ!」
明神の大いなる抗議を無視し、ふらりと立ち上がる彼はある意味でここにいる誰よりも死者っぽく(何しろ目は虚ろで顔色がひどく悪い)、ゆかりの胸にふたたび新たな疑問が湧き上がる。もの問いたげな目で明神を見やれば、怒れる案内屋はおっと、というような顔をして口をつぐんだ。思慮深げにガクを見、ゆかりを見、最後に部屋に集う一同をゆっくり見回して、首をかしげた。
「化野ゆかりさん、でしたよね」
「はい」
「このバカと会ったことはない」
「……ええと、はい」
「名前に聞き覚えも」
「ない、です」
明神は顎に手をあてて考えるポーズを作る。
「おいバカ」
「俺はバカじゃない阿呆」
「上の名前でも下の名前でも、覚えは」
「ない」
「ツキタケ、」
「ないっす」
「おいなんでツキタケに話を振った」
「お前よりよっぽどあてになるから」
「おい、」
「さて」
今度は腕を組み、明神はロシア帽をかぶった彼(彼女かもしれない)に声をかけた。
「キヨイ、こんなケース知ってる?」
「アイドンノウ。しかし本人たちが知らないだけで実は血の繋がった兄妹だったってのはどうだい?」
淡々と自説を披露するその声は、やはりその容貌にふさわしい美しいものだったけれど、まぎれもなく男性のものでゆかりの小さな疑問は一つ氷解した。
「兄妹……」
「血は水よりも濃い。無縁断世の力が母親の胎内で娘に分け与えられたりするんだ。強い縁のある人間同士なら考えられなくもないだろう」
キヨイと呼ばれた青年はついでのように付け加えた。
「生き別れの双子とかね」
「ああ、双子は特につながりが強いしな……って顔全然違うじゃねえか!」
「二卵性ってのがあるぞ」
バットの少年が口をはさむ。
「よく知ってるね、エージ君」
先ほどその一声でゆかりのいましめを解いた少女――桶川姫乃と名乗った――が、驚いたように言った。
「同じクラスにいたんだよ、やっぱり男と女だった」
なんでもないことのように少年は言い、ゆかりとガクを交互に見た。
「……誕生日はいつ?」
それなりに真剣な面持ちになった明神の言葉に、ゆかりは小さく息を吸う。
「2月9日です」
がちゃん、と音がした方向を反射的に振り向く。
ソファの隣に座る十味の手の下で、淡い水色をした湯呑がこなごなになっていた。じわじわと床に広がる液体ときらきら光る氷のかたまり。瞬間、みとれた。
台所へ駆け込む姫乃、何してんだよじいさんと呆れたように声をかける明神。赤いワンピースの少女は興味ぶかげに水たまりを覗き込み、さっきまで彼女を捕まえようとしていたマフラーの少年――ツキタケ、は、
色を失ってゆかりを見つめていた。
その肩にそっと、骨ばった手が置かれる。
「いつだ」
氷のようにつめたい声。見上げれば土気色の顔は先ほどからの無表情と変わりないように思われたが、目が違った。
燃えるようなにくしみを宿した目。
こんな視線で射抜かれたことは、ゆかりの今までの人生で一度だってなかった。
「いつ、って」
「なんねんの」
「なん、……1982年です、が」
語尾がふるえるのを止めることはできなかった。
ガクは言葉の真偽を見定めるように沈黙したが、やがてふいと目をそらした。そのまま踵を返してアパートの共同玄関に向かう。あわてたようにツキタケがその後を追う。
開かれたままの扉をくぐり、幽霊たちはやや日が傾きかけた街路に出ていった。

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