柔らかな空気は甘い香りを含んでいた。頬をくすぐる微風に小春は小さく笑み崩れる。
桜はもう散ってしまったけれど、暖かな4月の夕暮れを彩る花々はいずれも己が主役と言わんばかりに咲き誇っていた。歩道の脇のささやかな花壇を横目で見ながら、小春は兄との問答に意識を戻す。桜、桃、タンポポときて次は小春の番だ。
「パンジー」
「……スミレ、」
「チューリップ」
「あ!言おうと思ってたのに!」
情けなく眉を下げる兄の顔を見上げ、小春はうふふと笑った。同時に繋いだ手をブンブンと振る。
「えーと、えーと……もうわかんねーよ」
随分あっさり降参宣言をしてしまった兄を見上げ、小春は眉をしかめてみせた。《ゲーム》がこれで終わりでは、いかにもつまらない。
春の花の名前を言い合う遊びを提案したのは小春だった。この前、近所のお婆ちゃんに教えてもらったココントウザイというゲーム。聞き慣れない呼び名のそれを、しかし兄は知っていた。さすがお兄ちゃん、と小春は思う。それはさておき。
仕方ない、と小春は思い、兄に助け舟を出してあげることに決めた。幸い、母の影響で植物には明るい。
「ヒント、玄関を出て右側の鉢に植わってます」
「右……?」
「ヒント2、白いです」
「しろ……ああ、あれ、えっと……スズラン!!」
「正解!!」
兄妹は互いに顔を見合わせ、ニッコリ笑った。少しだけ伸び気味の兄の髪がそよ風に揺れた。
「じゃあ、次、小春ね。ジンチョウゲ!」
「……よくそんな難しい花の名前知ってるな」
兄は目を丸くし、小春は満面の笑みで胸を張った。兄の賞賛は何時なんどきでも快く耳に響く。
小春の兄――里中哲太は、年の離れた(何しろ小春はまだたったの5歳、兄は11歳だ)妹にとても優しい上、ひどく素直な性格だった。すごいと思えばすごいと言うし、自分が間違っていた時はきちんと謝る。たとえば今朝、算数のノートがないと騒いだ兄はまず隣で寝ていた小春を疑ったのだけれど(たしかに疑われるような前科はある、それは認めよう)、結局、スポーツバッグに無造作に突っ込まれていたのを見つけたところで前日の自分の行動を思い出したらしく、すぐに謝ってくれた。兄は整理整頓が苦手だ。
けれど、
「もう俺、降参」
「えー」
そう、良く言えば素直。
そして悪く言えば諦めの早い兄は、小春のブーイングを遮るように今度は自分から、繋いだ手と手を大きく振った。ブランコのように揺れる小春の細い腕と、兄のスラリと伸びた腕。その光景を見ていたら訳もなく嬉しくなってしまって、小春は三角に吊り上げた目をすぐに戻さねばならなくなってしまう。
ひとしきり笑って、ひとしきりじゃれて、
「どうして今日はお兄ちゃんがお迎えなの?」
そうして小春はすっかり忘れていた疑問にようやく思い至って首を傾げる。
現在、時刻は午後の4時。祝日でも何でもないただの普通の日だ。普段なら兄はまだ学校にいるか、そうでなければ少年野球の練習の真っ最中であるかの時間帯だし、今朝、幼稚園の門の前でバイバイした母も特に何も言ってはいなかった。そう、母はいつも通り綺麗にお化粧をして、シュムのおじさんと楽しげにお喋りをしていて、
「えーっと」
兄は困ったような顔になった。小春は急に血の巡りが速くなるのを感じる。
「ママ、ぐあい悪いの?」
「ああ、違う違う」
慌てたように首を振り、なだめるように小春の旋毛にそっと手を置く、素直で嘘の付けない兄はそれでも少しの間言い淀んだ。
「カントクんちのばーちゃんが……キトク、だって」
囁くような三文字を、けれど小春は理解できない。
「キトク?」
鸚鵡返しに繰り返せば、兄の唇がへの字に曲がった。
「……具合が急に悪くなったってこと、かな」
小春は再び眉根を寄せる。カントクというのは兄が所属する野球チームの監督のことだろう。そのお爺ちゃんはよくベンチで激を飛ばしているのを小春は知っている。けれど《お婆ちゃん》は――
「ニュウイン、してたお婆ちゃん?」
慣れない単語を舌に載せた。兄は渋面のまま頷いた。
小春が物心ついた時には既に長患いで病院に寝起きする生活を送っていたというその女性(ひと)に、小春は一度も会ったことがない。あの気難しいお爺ちゃんが毎日お見舞いに行くほど《イイオンナ》なのだともっぱらの評判で、そんな風にからかわれるたびにお爺ちゃんは怒ったような顔を赤くして黙ってしまう。
「俺は練習なくなったし、お母さんはカントクんちに行っちゃったし」
《カントクの奥さん》――それはすなわち兄の同級生、武藤一郎の母でもあるのだが――と小春の母はとても仲が良い。チョーナイカイのお祭りや餅つき大会の時はもちろん、それぞれの家で何かしらがあるとお互いに手伝いに行くのが常のことだった。カントクが《オニノカクラン》で寝込んだ時も、昔、兄がジャングルジムのてっぺんから落ちて骨折した時も――
「……早く良くなるといいね」
「…………うん」
長めの沈黙の理由(わけ)を問おうと顔を振り仰いだ時、視界の隅を淡い紫色がかすめた。
兄の足が止まる。だから自然に小春も立ち止まった。
再びはらりと風に揺れたのは、薄紫の着物の裾。
正面、4メートルほど先から徐々に近づいてくるのは二人の人物だった。一人はがっしりした体格の中年男性、もう一人は小柄な老婆だ。男性は白っぽいツナギを着て、くすんだ色のジャンパーを羽織っている。黒々とした髪は短い。小春の父よりは一回りほど上に見えるが、放つオーラは若々しかった。彼は老婆に寄り添うようにして、ゆっくりこちらに歩いてくる。老婆が纏っているのは小春がこの前、川辺で見つけた菫に似た色の着物だった。重ねた羽織はもう少し濃い紫色をしている。綺麗な銀髪が午後の遅い光を跳ね返して、小春は一瞬、目を瞑った。
「……あら」
細い、それでいてよく通る声が小春の目を開かせた。いつの間にか目の前にいた老婆は穏やかに微笑んでいる。
「こんにちは」
小春はひくりと喉を鳴らし、
「……こんにちは、」
驚いて兄を見上げた。見かけによらずあがり症の兄の掌は少し湿り気を帯びている。
老婆の笑みが深くなった。
「あ、」
何か言おうとした男性を制し、変わらぬゆったりしたスピードのまま彼女は横をすり抜ける。古いお寺のような、それでいて花のように甘い香りが鼻先をかすめた。小春の母が毎朝、鏡台の前で吹き付けているのとは全く違う種類のそれ。
二人が角を曲がって見えなくなるまで兄は棒立ちのままだった。
「……お兄ちゃん」
袖を引く。兄は夢から覚めたかのように瞬きをした。
「……ああ」
「……おばーちゃんと、シリアイだったの?」
素直な兄は幾分か悩み、結局頷く。
《おばーちゃん》――《カントクんちのばーちゃん》とはまた別の、彼女は近所に一人で住まう老婆だ。ある意味で有名人と言えなくもないが本名を知る人は少なく、大抵の人は彼女を《サッカノセンセイ》と呼んでいる。
その呼称は大方の場合、躊躇いを持ってそっと口に出された。躊躇い、あるいは憐れみ。
人あたりが良く、笑顔を絶やさない。性質は穏健、行動は親切。そんな彼女が周りの住人から距離を置かれるのは、ひとえに彼女の振る舞いゆえだった。
誰もいないところに話しかけていた――
若くして旦那さんを亡くした後、ちょっと頭がおかしくなったらしい――
何しろサッカノセンセイだから、ちょっと変わっているのだろう――
彼女の周りに人相の悪い人物たちが行き来していること、彼女が一人暮らしには不相応な広い屋敷に住んでいることも噂に拍車をかけた。実はヤクザの一人娘だったとか、いやアイジンだったのだとか、口さがない大人たちはそこにいる子供の視線を忘れたかのように囀り、そうして家に帰ってこう説くのだ。

あのおばーちゃんのお家に近づいちゃいけないよ。
話しかけられても黙っていなさい。
何かあったらすぐお母さんに言ってね。

「……お兄ちゃん、は」
「……前に、スマホ失くした時。……見つけて、もらって」
小春は思わず頷いた。兄はよく物を落とす。
「……もしかして、……ココントウザイを教えてくれたのも?」
兄が目を瞠った。三白眼ぎみのその瞳を真っ直ぐ見返す。
小春が彼女と《遭遇》したのは、ひとつ前の冬のはじめ。あれは季節を間違えてしまいそうなポカポカと暖かい日だった。どうしてあの日、小春は母といなかったのだろう。外出する時には必ず、心配性の彼女は小春にぴったりくっついて離れないというのに――ともかくなぜか、あの時小春は一人だった。公園のベンチで、絵本を広げて。
「あら」
降り注ぐ陽射しに似たあたたかな声につい振り向くと、目を細めた老婆と目が合った。
「それ……好きなの?」
コクリと首を縦に降ると、老婆はますます楽しそうに目尻を下げた。
「今じゃ、図書館にもなかなか置いてないでしょう」
「……ママが……」
パリの寄宿学校に集う女の子たちの物語であるそのシリーズは、母が祖母から受け継いだのだという自慢の品だった。
「まあ!お母様、いいご趣味だわ!!」
パチンと手を打合せ、少女のように目を輝かせた老婆は数秒後、我に返ったように小春を見た。
みじかな沈黙。
「……ごめんなさいね」
手を伸ばしてしまったのはきっと、淋しげな微笑のせいだ。
和服の袖を掴まれた彼女は数秒の後、今度は花が開くようにわらった。
「……いい人だよな」
兄のシンプルな述懐に小春はどう反応していいかわからない。
俯いた。と、旋毛に感じるあたたかな重み。
「……ごめんな、行こうぜ」
顔を上げて見た世界は先ほどよりも濃い橙色に染められ、木立の隙間から金色の光が差している。ついさっきまでそこにあの老婆(と男性。あれは一体誰だろう?)がいたなんて夢にも思えないような静かな景色。
目に映るそれとは対照的に少しずつ温度を下げる空気に、小春はぶるりと身震いした。

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