小春の母はセンギョーシュフだ。朝は誰よりも早く起き、家中の植物に水を遣り終えると、父曰く《怒涛のお弁当作り》が始まる。線が細いのによく食べる父のためには必ず肉の入ったボリュームのあるものを、《ママに似て食の細い》、そしてやや偏食のきらいのある小春のためには大小様々の工夫が凝らされたそれを(ちなみに兄は完全給食のためにこの恩恵に預かれないことをいつも嘆いている)。小春が目をこすりながら起きてくる頃にはすっかり片付いたテーブルにほかほかのお弁当が2つ、彩りも鮮やかに並んでおり、それを半ばかっ攫うように掴んで慌ただしく父が、それを追うように兄が出て行くのを見ながら母は小春と自分の膳を整える。朝は和食、が里中家の決まりだ。勿論、男二人はとっくに母の美味しい手料理を胃に収めている。
小春が幼稚園から帰ってくれば手作りおやつが待っていて、よく陽のあたるリビングで二人、ゆったり過ごすのが常だった。小春の周りには習い事と称してスイミングやら英会話教室やらに通う友人が比較的多くいたけれど、父も母もあまりそういうことに対してあくせくしない性質だった。《したいことをしたい時に、ただしやるなら全力で》――そんな教育方針で育った兄は今や骨の髄から野球少年だ。小春もそのうち、兄のように《したいこと》が見つかるのだろうかとぼんやり考えることもあるが、少なくとも今は母と家で過ごしたり、近所を散歩したり、図書館に行くのが小春の《したいこと》なのであった。
日が落ちる頃、ドロドロに汚れた兄が帰ってくる。たとえば兄の友人・一郎の母だったら目を釣り上げて息子を風呂場に叩き込む場面だが(小春は一度、それを生で見て心底震え上がったことがある。しかもそれが毎日繰り返されるのだそうだ!)、母は蜂蜜みたいに甘い笑顔で兄を迎え入れる。兄と小春が仲良く湯船に浸かっている間に兄の汚れたユニフォームは魔法のように洗い上げられ、ようやく汗が引く頃にはこれまた綺麗に夕食の皿が並べられている。帰りが遅くなりがちな父がこの《家庭の食卓》に参加できないことを心から残念がっているのを、小春は時々直接、あるいは間接的に聞く。
時計の短針が9を過ぎる頃、帰宅した父のためにもう一度テーブルを整え、給仕をし、そして小春が眠る時には必ず絵本を読んでくれる、母。小春は彼女が眠りにつくところを見たことがない。寝顔すら、夜中にトイレに起きる時以外は見ることがないと言っていいくらいだ。《どこに出しても恥ずかしくない》(祖母談)、小春の自慢の母であり、家事一切を不得手とすると吹聴してはばからない父はそんな母を心から尊敬し、慈しんでいる。月に一度、兄と小春の面倒を見にはるばる隣県からやってくる祖母は毎度毎度、ため息をつきながらこう述懐する――《月に一度はデートだなんて、あの子達は本当にいつまでも新婚みたいで》。
《でもそのお陰で俺たちに会う口実が出来て嬉しいんだぜ》とは兄の弁だ。
母に比べ、一緒に過ごす時間が極端に少ない父はギンコーマンであり、小春はついこの前までそれがテレビで見るヒーローの類、つまり悪い奴をやっつける正義の味方だと思っていた(聞けば兄も幼い頃は同じ勘違いをしていたそうで、何しろ名前が悪いよな、と小さな二人は嘆息し合った)。朝は早く、夜が遅いのは母と一緒だけれども、いつも父は母よりも少し疲れているように小春には見える。《男は家を一歩出れば戦場だからね》――そう言ったのはやはり祖母だが、小春はまだその言葉の意味がよくわからない。けれど、父も母と同じで子供たちにはめっぽう優しい。声を荒げることなど滅多にない――いや、小春の覚えているかぎりは皆無である。時に明るくはしゃぎながら、時に静かな笑顔で愛娘と愛息子を見守る父は、唯一の趣味が母と同じく読書で、それがきっかけで二人は出会ったのだとか。ただし好みの傾向はだいぶ違うようで、父は自称《ノンフィクション党》であり、母は小説ばかりを好んで読む。健気な母は時々、首をひねりながら父の蔵書にチャレンジしているが、父はどうしても《小説だけは頭に入らないんだ》とすまなさそうに母に言う(しかしこの前、兄は父の鞄に《ショーセツっぽい本》が入っているのを目撃したらしい。真実は未だ不明だ)。
家の中で本を読まないのは兄くらいだ。いつも明るい兄が国語のテストを返される日だけはしょんぼりと元気がないのを小春は知っている。そうしてその日は必ず、夕飯が揚げ物になることも。そのことに兄はたぶん、気づいていない。
父と母と兄と小春。空が広く、少し歩けば川があって森がある《トウキョウとは思えない》のんびりした町の外れの住宅街に、小さな家族の家はあった。周りには似たような外観の建物が区画ごとに幾つも立ち並び、時々、通りがかるお年寄りが何事かを不満げにブツブツと呟いているのを見ることもあるけれども、小春の世界は概ね平和だ。
午後はポカポカとあたたかな陽射しの差し込む家、小さいけれど四季折々の花が咲く母の自慢の庭。

そう、小春の平和な日々は、平和な世界は、いつまでも終わることなく続くはずだった。

***

鋭い電話のベルで小春は跳ね起きた。見回す。辺りはまだぼんやり薄暗いが、既に父も母も起きている時刻のようだった(兄はこの春から自室を与えられ、そこで寝起きしている)。ベルはすぐに鳴り止み、二言、三言、詳細は聞き取れない会話が耳に届いた。なぜかしら、不吉な予感が胸を覆った。
寝室のドアを開ける。剥き出しの足の裏に廊下はいかにも冷たい。ぎこちなく階段を降りるペタペタという足音を聞き取ったか、リビングから顔を出したのは兄だった。
その表情は固かった。
「……お、兄ちゃ」
「……カントクのばーちゃんが……」
走りよる。寒さが脚を伝って背筋を駆け上がった。
「……亡くなった」
それは《死》の婉曲表現なのだと、小春は最近知ったばかりだった。

小春を幼稚園に送り届けた後、母はすぐにカントクの家に向かったらしい。小春たちと違い、ひいおじいちゃんの代からこの土地の住人であるという武藤家は駅を挟んで向こう側にある。いつも落ち着いた母は今日は口紅を引き忘れていたけれど、幼稚園の先生は何も言わなかった。ただ母が帰った後、小春の頭上では何やらひそひそ声で会話がなされ、園長先生がこれまたバタバタと出て行ったのが印象的だった。お友達だったのだろうか、と小春は思い(園長先生は髪は真っ黒だけれども顔はシワシワだったから、本当はかなりのオトシヨリだと小春は踏んでいる)、沈痛な表情をしていた母を思った。
夕方、迎えに来たのは前日と同じく兄だった。
景色も掌の感触も昨日と変わらないのに、もう、カントクのお婆ちゃんはこの世にいない。
そのことが不思議だった。

紫の着物を着た《おばーちゃん》――実は小春は初めて会った日にちゃんと名前を教えてもらったのだけれども、どうしてか口に出すことができない――には、今日は会うことはなかった。

次の日、小春のお弁当はおにぎりと卵焼きとタコさんウインナー、プチトマトにブロッコリーだった。
父はコートに袖を通しながら一所懸命、落ち込む母を慰めている。
「実は僕も一回、食堂で食べてみたかったんだよ」
「ごめんなさい…」
「それよりお通夜は?」
父の言葉に母はハッと顔を上げた。目の下に薄い影が出来ている。
「今晩ですって。空いているのが今日しかないみたいで」
父は頷いた。
「ハルは僕が連れて行こう。幼稚園のお迎えも僕が行くから、君は先に出るといい」
小春は驚いた。平日の昼間に父が帰ってこられるなんて太陽が西から上るよりもありえない(この言い回しも《おばーちゃん》が教えてくれた。とてもびっくりした時に使うのだそうだ)。
「じゃあ、お願いします。……テツ君も」
「わかった。学校終わるの、3時半だから」
「丁度ハルのお迎えに出ちゃう時間だな。鍵、持ってるか?」
「うん」
「何かあったら電話するんだぞ」
「はい」
やり取りを見つめていた母は、そこでほっと息をついた。
「それじゃ、喪服出しておきますね」
励ますように父が母の背をトントンと叩く。
「ああ、頼む。僕はどこに何があるかさっぱりわからないから」
父の言葉に母はようやく少しだけ微笑んだ。

どこに何があるかわからないのは父だけではなかった。何となれば、里中家の全てを管理しているのは主婦たる母、ただ一人だったから。

そのことが後の騒動のきっかけとなった。

これは後から聞いた話である。
小春の兄こと里中哲太はその日、珍しく考え事をしながら通学路を辿ったのだという。幼い時に数えるほどだけれども会ったことのある故人のこと、そしてその息子であるところの監督や孫にあたる友人のこと……とりとめのない思いは授業中も拭えず、ハッと気づいた時には昼休みだったのだそうだ。
いつもつるんでいる友人は、今頃斎場にいるはずだった。何となく手持ち無沙汰な気持ちのまま手洗いに向かい、ハンカチをポケットから取り出した時、哲太は反対側のポケットが妙にスースーするのに気がついた。
肌身離さず持ち歩いているスマートフォンが、ない!
今日は体育の授業はなかった。ということは、通学途中で落としたか、そもそも家に置いてきてしまったのか……
哲太は焦った。緊急の連絡が入るかもしれないということは勿論、こういう事態になるのは二度目だったからだ。幸い、あの時は大事にならずに住んだけれども、こんな時、普段は優しい父の声が一段低くなるのが兄は何よりも恐ろしかった。
とにもかくにも見つけなければ。
弾丸のように飛び出した哲太が行方不明だと騒がれるのは、それからおよそ一時間が経過した後のことだった。

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