7歳の誕生日の朝を依はたった一人で迎えた。家族から遠く引き離された山奥で。
幾つかの電車を乗り継ぐために付き添ってくれた母すら、長く続く参道の入口で手を離した。気が遠くなるほどの石段を見上げ、真っ青な顔で唇を震わせる彼女を前にして幼い依に何が言えただろう。

――怖い、
――行かないで、
――もう嫌だ、

どの気持ちも音を獲得することなく、依の体の奥の奥、深くて昏い淵に沈んだ。それは長い間の訓練で獲得されたものかもしれなかった。
よるがこのよにうまれてからきょう、ななつになるまでの、ながい、ながい、とてもながい、あいだ。
ただにっこりと笑った、つもりだった。それでとうとう若い母は大きな両目から透明な雫を零し、
肩口で切りそろえた黒髪が折からの突風にさらわれて美しい軌跡を描いた。
依は幾度か瞬いて、その光景は生涯忘れえぬものになった。
橙色した空の端を深い蒼が侵しはじめていた。

優顕(まさあき)叔父の言ったことは本当だった。嘘ならば良いと思っていたのに。
一晩中、《声》は依を呼び続けた。細く長く、高く低く。窓の無い正方形の建物の中央、塗りつぶされた闇の中で依はただ目を瞑って耐えた。けっして返事をしてはいけないと依に教えてくれたのは、厳しい《修行》をつけてくれた彼――母の弟、小山のような体格に似合わぬ繊細な神経を持つ青年――だった(彼は今は、自身の名を音読みにしたユウケンという名で僧侶として生活している)。
出立の前、普段は柔らかな表情を絶やさない彼は固い面持ちを崩さず言った、
《それ》が叔父や母の声に聴こえることがあっても絶対に応えてはいけないと、
応えれば依は《死んでしまう》のだと。

死という概念をきちんと理解しているわけではなかった。
依の中でそれは、ただ一人の人物に結びつく。
――お爺様。
思わず呟きそうになり口を押さえる。
飲み込んだ思いは脳裏でゆっくりと花開いた。相変わらず、一枚壁を隔てた向こうには依の魂を狙う魔物達が騒いでいる。
――おじいさま、

かつて一つ屋根の下に寝起きしていた祖父。
ある日突然、彼は忽然と姿を消した。
父も、母も、何も言わなかった。だから依も言わなかった。
ある日を境に、彼が《お婆様のお部屋》だった離れに閉じ込められたこと、
それによって彼の《奇行》に拍車がかかったこと、
結局、《トクベツヨウゴロウジンホーム》に移送するしか手立てがなかったこと、
その全てを、依が知っていたこと。

その全てが、依のせいだと知っていたことを。

死とはきっと、喪失の同義語だ。



これは、喪失に至るまでの物語。
過酷な運命に縛られ、けれど望んでそれに身を委ねた一人の愚かな男の、
誰も知ることのなかった小さなお話。


月を悼む 1


覚醒までには若干の間を要した。朦朧とした意識にまず飛び込んできたのは目を射る光、それは磨き上げられた縁側の黒い板を反射したもので。
「おかあさん……」
ん、の響きが自身の耳を通過したところで依は完全に目覚めた。そして赤面した。
母は今、家にいない。依は留守を頼まれたのだった。7歳になったから、もうお兄ちゃんなのだから、と。
軒に下げられた簾を透かすように見上げれば、視線の先には巨大な入道雲。ぷつり、と二の腕の表面に生まれた汗の玉が肘を伝う、途端に意識される肌を灼く熱。今朝、ほんじつのさいこうきおんはさんじゅうろくどのよそうです、と言っていたのは、先頃、髪を男性のように短くした8チャンネルのお天気お姉さんだった。
立ち上がり、台所へ向かう。冷蔵庫を開け、麦茶を取り出す。細い喉を鳴らして飲みながら、依は今日これからのことを考えた。蝉がうるさいくらいに鳴いており、時計の短針は3の少し後ろを指している。これがおおよそあと半周するまで、依は一人で過ごさねばならない。
翌週に控えた盆の準備のため、両親は菩提寺に赴いていた。今日はもちろん平日だが、コームインのはずの父は、けれどしばしばヤクショを休む、かなり自由に。
それがおかしなことなのだと、いつか依に教えてくれたのは、2軒隣の小母さんだった。善意のカタマリのようだった彼女は、その時、ずいぶん酷いこと(依にしてみれば)も言ったので、
その夜、依は泣きながら父を問い詰めることとなり、
1週間後、小母さんの家は空になっていた。
ずいぶん急な引越しだったと、それはしばらくご近所の井戸端会議のネタになった。
――お父さんがいるのはトクシュなブショなのよ。
依の家と小母さんの家のある(あった)袋小路の入口で呆然と佇む依を母は抱きしめながら言った、
――だからお父さんはいろいろ大変なのだけれども、お母さんはほんとうに感謝しているのよ。
どういう意味だったのかは未だにわからない。
けれどわからないことは、聞かない。
その一件以来、依はそう決めた。聞けばどうなるのかは小母さんが身をもって証明してくれたからだ。
今はただ、彼女が元気でいてくれればいいなと思う――
コップの表面を伝った水滴が裸足の足の甲に落ち、依は我に返った。蝉の鳴き声が耳に戻ってくる。ななみなみと注いだはずの麦茶は、もう四分の一も残っていない。開け放した窓からぬるい風が入りこみ、冷蔵庫に貼られた今月のカレンダーを少し揺らした。
13日から16日までの日付の上には赤いボールペンで大きなバツが付けられている。やったのは父、その行動を大人げないとたしなめたのは母だ。
今月――すなわち8月の、それは旧盆と呼ばれる期間。
そう、週が変わればホンケであるところの依の家にはドヤドヤと親戚が押しかけ、ホージという名の面倒な行事が開かれる。その間、依はこっそり叔父の友人の家(東京の外れのほうだそうだ)に《請われて遊びに》行くことになっていた。
修行の時は厳しい叔父は、それ以外はとても優しい。今年も依に《避難所》を用意してくれた。毎年違う場所を都合するのは、きっと大変だと思う――
――どうして、今さら、
そうして意識が向かうのは今しがた見た夢のことだ。
ほんの3ヶ月ほど前の暗闇の記憶。
母の泣き顔、山の端の陰、耳に痛いくらいの無音と《魔》の咆哮。
7歳になれば《試練》があると、それは避けられないものなのだと、叔父は常々言っていた。だからきちんとくぐり抜けられるように、依の日々が――厳しい修行の日々が、あるのだと。
くぐり抜けられなくてもいい、なんて、口が裂けても言えなかった。
し、実際、依はまだ《生きている》。
奇跡と言うほどではないにしても、《あの日》の翌朝、迎えに来た母が膝から崩折れる程度には、それは成功率の低いこころみだったらしい(そして母と共に帰宅した依は父と叔父の男泣きを見ることになる)。しかし、
――いったい、何が良かったんだろう。
そのことの《意味》を、依自身は未だに納得しかねていた。
――ぼくの、何が、
青白い肌、外国人じみた薄茶の髪、些細な変化ですぐに熱を出すひ弱な身体。
依は自分のことが嫌いだった、だから、何がどうなって現在があるのかさっぱりわからなかった。
――いっそあの時。
思うのはいつも同じことだ。あの《試練》のもっとずっと前、依が家族のひとりを自分の所為で失った日に――
――そうしたらおとうさんとおかあさんだって、

木造平屋の一戸建てには不似合いなチャイムの音が響いた。

(設置したのは今年の春だ。それこそ依が生まれる前から使っていた年代物がなぜか壊れてしまった春分の次の日に修理を依頼したところ、いやに軽やかなメロディを奏でるそれが届いてしまったのは今でも月宮家の語り草になっている。)

来客には対応するように、《もうお兄さんの》依は言いつかっていた。どうせ親戚共は《その日》にならなければ顔を出さない。
だから躊躇うことなく引き戸を開けた。

白いモノがそこにいた。

「……っ」

白髪だ、と認識するには時間がかかった。
それが祖父だ、と了解するにも。

依の知る祖父は、決してこのような容貌ではなかった。
年齢に不似合いな黒々と豊かな頭髪と、華奢ではあるけれども貧相とまでは言えない、すらりとした体躯――
今、目の前にいる男性(ひと)は全て違ってしまっていた。
銀髪などという美しい形容をするには躊躇われるひたすらに白い髪の毛は、ところどころ抜けて地肌が覗いている。以前はピンと伸びていたはずの腰はせむしのように曲がり、それがために眼鏡の奥の小さな瞳(これだけは変わらない)は、一心に依を見上げていた。
――こんなに、
こんなにも小さかっただろうか。
父と母が恐れていた、

依がこの世の何よりも恐れていたこの人は。

「依」

しかし、その声は依の細胞全てを目覚めさせる。

「……お爺様」

まるで別人の彼は、遠い記憶にあるのと同じ笑顔で依の呼びかけに応える。
心底嬉しそうな、それでいて絶望的に寂しそうな、その表情。
革製の肩掛け鞄は今にもずり落ちそうで、それが彼の矮躯をますます強調していた。

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