「……大きくなったな」 しみじみとした調子は、かつての彼が依に向けていたものとは随分違ってしまっていた。 年齢相応の落ち着き。《祖父》が《孫》を慈しむ、ごく普通の穏やかな調子。 なぜか左胸のあたりがすうすうと痛んだのに、依は気づかぬふりをする。 「……お、」 「2年ぶりか」 祖父は目を細めた。しみだらけの左腕がピクリと動き、隠すように背後に仕舞われた。 「……お爺様は、」 どうして。カラカラに乾いた喉の奥からかろうじて幾つかの音を搾り出すと、祖父は表情を引き締めた。 正気だった。 祖母が住んでいたという離れ――《ザシキロウ》に入れられた時の彼とは比ぶべくもない。 「落ち着いてよく聞くんじゃ……依、」 皺だらけの口元が別の生き物のように生き生きと動く。 「お母さんがな、――で、倒れた」 菩提寺の名を彼は口にし、 「……え」 依は、初めて家の留守を任された、たった7歳の子供らしく絶句した。 「幸い、命に別状はない。少し休めば帰れるそうじゃ、しかし」 続く一言を、どうしてか依ははるかな昔に聞いたことがあるような気がした。 「……夕餉時(ゆうげどき)には戻れそうにないから、どこかで一緒に食べてきてくれと」 薄い唇の間から覗く舌がぬらりと光った。 「そう頼まれてな……ん?」 「っ、いえ、」 思わず台所の方を向きかけた依は慌てて祖父の顔に視線を戻した。汗ばんだ掌を後ろで組み、すぐに開く。 気づかれてはいけない。 「……わかり、ました……したくを、してきます」 玄関に立ちはだかる彼に背を向けようとしてほんの一瞬躊躇い、結局振り向く。 「……あのっ、帽子を被ってくるだけですからっ……」 祖父は破顔した。 「急がんでええよ」 そう言って、彼がゆっくり框に腰を下ろすのを見届けてから、依は足早に廊下を進む。全身の感覚は総て彼に向けたまま。 襖は大きく開け放し、閉じない。理由は二つ。時間をかけてはいけないから、そして、彼の気配を遮断してはいけないからだ。 父と母、そして依が寝起きする部屋の、箪笥の上から四段目。目の高さより若干上にある其処から苦労して外出用の日よけ帽を取った依は、 箪笥の隣にひっそりとある鏡台、それに一つだけ付いていた引き出しの奥に手を差し入れる。 触れたのは幾枚かの紙幣の感触。見もせずに尻のポケットに押し込み、 書き置きを残している時間はないから諦めた。 「……おまたせしました、お爺様」 「急がんでええと言うたに」 極度に腰の曲がった祖父が、そこから動いた形跡はない。依は内心でほっと息をつく。 おずおずと隣に並べば、彼は柔らかな表情のまま先に立った。 玄関を出て、鍵をかける。それはおそらく祖父が隠し持っていたのであろう合鍵―― カチャリという音を聞いて依は場違いに安堵した。 ――もしもお爺様が冷蔵庫を開けていたら、 それは恐ろしい想像だった。今、目の前にいる祖父が《正気》であるように見えれば見えるほどに。 冷蔵庫の中には、今朝、母が用意した依の夕食が並べられていた。 元々、今日は両親とも、午後9時を過ぎなければ帰宅しないだろうと聞かされていた。 祖父は、 「まだ時間が早いな……どこか行きたいところはあるかの?」 丸眼鏡の奥に輝く瞳を依は懸命に見返した。 「……じゃあ、××デパートに行きたい、です」 「ほう」 祖父は目を細めた。 「じゃあ久々に、○×――で、アイスでも食べるか?」 依は黙って微笑んだ。それで祖父は満足したらしい。 背に伝う汗が気づかれていないことだけを祈っていた。 *** 真昼の熱の名残を留めた屋上には、ほとんど人気がなかった。くたびれたパラソルの下、依はソフトクリームを舐めている。ちなみに祖父が頼んだのはかき氷だ。毒々しい人工の赤は太陽の熱に溶かされ、見る間に薄くなっていく。 「お、お爺様は、」 「うん?」 シャクシャクと良い音を響かせながら祖父は依を見た。 「あたまが、痛く、なりませんか」 「……ああ、大丈夫じゃよ、大人じゃからな」 言って祖父は目尻を下げた。 「依は優しい子じゃ」 そしてまた枯れ木のような左腕が僅かに震えた。依は素知らぬふりをする。 だってそれを指摘してしまったら何かが壊れるような気がしたから。 しばしの沈黙が場に落ちる。太陽が地平線に没する気配はまだない。 そのうちに、雪のように真っ白なクリームを全て舐め取ってしまった依はサクリとコーンに歯を立てた。上目遣いで再び傍らを見やれば、祖父は付属の小さなスプーンを念入りにねぶっているところだった。 視線に気づいたかこちらを向く。すぐに彼は照れたような顔で笑い、唾で濡れた匙を口から離した。 「しかし、ほんに大きゅうなったのう」 皺だらけの左手に握られたプラスチックカップには、もう色水のような液体しか残っていない。 「幾つになった?」 その質問はさして危険なものとも思えなかった、だから、依は変わらず緊張しながらも、躊躇わずに言葉を唇に上らせた。 のぼらせて、しまった。 「な、七つ、に」 祖父は硬直した。 言葉を続けられないその異様な様子に、依の背中が冷たくなる。 「……お、」 突然、視界が暗くなった。消毒液の臭い、そして今まで嗅いだことのない、うす甘く、何かが腐敗するのに似た臭い。 カラカラと何かが転げる音がした。それはきっと祖父が手に持っていたあの容器―― 屋上が汚れてしまう。ぼんやりとそんなことを思う。 「……行ったんじゃな」 《試練》のことだとすぐにわかった。頷く。祖父はますます腕に力を込めた。 「すまん」 依は酸素を求めて喘ぐばかりだ。老人のものとは思えない力。 「また、儂は……お前が、辛い時に、一人に」 声は少し震えて、途切れた。 長い長い時間が経ったように思われた。 「……もう、」 そんなことはさせない、と。 そういうような意味のことを祖父は言ったようだった。 どうしてか依はその言葉をはっきりと認識することができず、 ただひたすら、身を固くして時が過ぎるのを待っていた。 夕暮れどきとはいえ、真夏。しかし二人の周りだけはしんと冷たい気が足元から這い上がってくるようだった。 *** 夕方の一件以来、依はますます言葉少なになってしまった、そうならざるを得なかった。年齢のことはうっかりしていたと言えるけれども、それにしても何が祖父を刺激するのか全くわからない。 今もメニューを見て途方に暮れるばかりだ。 同じデパートの、一つ下の階に入っているレストラン。 明るい照明に照らされて、祖父は先ほどの取り乱しようなどすっかり忘れてしまったみたいにご機嫌だったのだけれども。 「依は慎重じゃなあ」 「え、と」 お爺様、決めてください。 長い逡巡の末、しおらしい台詞を発すれば祖父の頬に赤みがさす。 彼は敏捷な仕草で手を挙げるとウエイターを呼んだ。オーダーはカレーライスと、 「何かこう、お粥みたいなものはありませんかの」 半白髪の老人の台詞にまだ若いウエイターは苦笑いを返し、 結局、ピラフを頼んだ。 ウエイターが厨房に消えるのを待たずに祖父はいそいそと鞄を開ける。見た目にはずっしりと重そうなそれだが、 「おくすり……ですか……?」 チラリと見えた中身はほとんどが虚無の黒だった。かさばっているのは病院でよく見る紙製の薬袋だけで。 「おじいちゃんのオヤツじゃよ」 冗談めかして微笑んだ祖父は、色とりどりのそれらを丁寧にテーブルに並べた。 最初は呆気にとられていた依だが、徐々に自分の顔が青ざめていくのを止めることができない。 だってこれは、物凄い量だ。 祖父が、……何らかの病に侵されているらしいことはうすうす感づいていたとはいえ、 「ほら、綺麗じゃろう」 あくまで無邪気に言う祖父の背後に影が差した。 「お待たせいたしました」 ウエイターは、湯気を立てるカレーライスをまず、依の前に恭しく置いた。 次いで後ろに控えていた小柄な女性が祖父の横に立ち―― 「あっ!!」 その指先が伸ばされた瞬間、祖父のグラスがついと倒れた。 一瞬の気の緩みが招いた、よくある些細で不幸な事故。 テーブルの上にできた水たまりはすぐにクロスの先から滴り落ち、焦った彼女は挙げ句の果てに、並べられた色とりどりの錠剤をすっかり当たりにぶちまけてしまう。 「申し訳ございません!!」 悲鳴のような声を上げ、右往左往する従業員たちを尻目に依は慌てて薬を拾うべくしゃがみこんだ。これだけたくさんの種類があるということは、きっと、どれが欠けてもダメなのだと思う。 「いや、いいんじゃよお嬢さん、落ち着いて」 泰然とした祖父の声が頭上から降ってくる、彼は立ち上がる気配すらない。ウエイターはバタバタと走り去り、女性もすぐにそれを追った(依からは足だけが見えていた)。 ひと騒動が収まり、あらためてテーブルに付いた時にもカレーライスはまだ温かそうだった。だから祖父はウエイターの申し出を固辞し、依にそのまま食べるよう促した。もちろん、異のある依ではない。心臓がまだドキドキしていて、味などろくにわからなかった。 「旨いか?」 コクリと頷き、声を出そうとして咳き込んだ。祖父は背中を撫でてくれる。 「……お、お薬は、それで」 全部でしょうか。涙目になりながら言った依の頭を祖父はポンポンと叩いた。 「大丈夫」 結局、祖父はほんの一口、二口ピラフを口にしただけで、黙々と薬を喉に流し込んだ。最後の一錠が胃に向かって滑り落ちていくのを依は喉仏の動きから想像する。 「カレーは喰い飽きてな」 すっかり空になった依の皿を満足そうに見ながら、祖父はそんなことをポツリと言った。 「田中さんが毎日毎日『夏はカレーでしょ!』なんて言うもんだからこっちも乗せられちまって、しかし考えてみるとありゃあ、ただメニューを考えるのが面倒なだけじゃな。全く、栄養士の風上にも置けん」 「たなかさん……?」 キョトンと見上げる依に、祖父は急いで手を振った。 「いや、あっちで面倒見てくれとるタダの栄養士じゃ、タダの。まあちょっと美人と言えなくもないが……ただのおばちゃん、じゃよ」 ただのを三回も繰り返す意味はよくわからなかったから、依はただ笑う。 その対応は正解だったようだ。 *** オレンジ色の明かりを背にして暗い歩道に降り立つ。閉店間際のデパートの、なんとなくうら寂しい気分から解放されてホッとした依は、急速に瞼が重くなるのを感じた。 「どうした、もうおねむの時間か」 たしかに依は毎日9時になれば布団に入る。でも今日はまだ、そんな時間ではないはずだ。 必死で首を横に振った。あんなに背の曲がった、あんなに薬を飲んでいる祖父におぶわれるようなことになってはいけない。 けれど脚がもう、言うことを、 「依はまだまだ小さいな」 なのに祖父はまるで落ち着き払っていた。まるで、こうなることを予想していたかのように。 何かがおかしい、と考えられるほどの思考力はもう依に残っていない。 「ほら、儂の背に乗りなさい」 屈曲した背骨に触れた、と思った次の瞬間、依の意識は闇に落ちた。 >>> |