小気味よい風切り音。少し遅れてこぶし大の硬球が白いラインの間際を跳ねた。
「ナイサー」
「ナイサー」
運動部の掛け声というのはどうしてこう意味を捉えづらいものばかりなのだろう。依は首をかしげかけ、慌てて意識を《彼女》に集中させる。
彼女――斎藤弓(さいとう・ゆみ)。長い黒髪をキリリと結い、一部の隙もなくユニフォームを着こなす姿は、テニスなどというどちらかといえば華やかなイメージのあるスポーツよりも彼女の名にあるような武道の類によく似合うように思えた。左目元の泣きボクロとぽってりした紅い唇がその印象に拍車をかけている。まあ、彼女の趣味嗜好がどんなものであれ依にはとんと関係がないのだけれど――
ゲームはそろそろ決着がつきそうだ。二度目のサーブはギリギリのところで捉えられたものの相手の選手はラリーを続けるので精一杯の様子、優勢なのは弓のほう。
ギャラリーを見渡す。弓と同じユニフォームを纏っている女生徒が半分、そうでないのがもう半分。後者は依や田中維継が通う高校のテニス部員たちで(つまり彼女たちはホームグラウンドでの試合ということになる。しかし弓は強い)、その他にジャージ姿の男子生徒が2、3人、見るともなしに試合を眺めていた。特別、選手たちのファンというわけではない、ただの通りすがりらしい彼らだが(彼らもまた彼女たちのように休日を部活に費やす健全な青少年なのだろうか)、一様にその視線は風に揺れるポニーテールに集まっている。今時珍しいくらい深い黒色をした髪の持ち主な彼女。
――美人、なのかな?
今度は反対側に首をかしげて考察を試みるものの、依には美醜というものがよくわからないのだった。
たとえば田中維継はモテるそうで、それには何となく納得するのだが、では彼がいわゆるハンサムかと問われれば言葉を濁す他ない。べつに彼を不細工だと思っているわけでは毛頭なく、ただ、顔立ち云々よりも彼が放つ雰囲気のせいではないかと思うのだ。
ひとを惹きつける華のようなものが彼にはあった。それは依には無いもので、ほんの少しだけ羨ましく思わないこともない――
と、周囲の女生徒たち(弓と同じチームの)がどっと沸いた。勝ったのは無論、彼女のようだ。
コートの端と端にいた二人の選手が歩み寄り、握手を交わす。
やや吊り気味の大きな瞳、泣きボクロのすぐそばをつつっと透明な雫が伝った。清廉な、汗。
素人目には弓のほうに相当余裕のある試合に見えたが、実際はそうでもないのだろうか。まあスポーツなのだから汗くらいかくか、と思い直して依は彼女から目をそらそうとし――
頭の天辺から足の先までが瞬時に凍った。
彼女は、弓は――《田中維継の元彼女》は、射抜くような瞳で依を見ていた。
しかし、それはほんの一瞬のこと。我に返ったとき、彼女はもうこちらに背を向け、歓声の上がるチームメイトの群れのほうへ歩き出している。
偶然だろう、そうに違いない。言い聞かせながら依は足早にそこを去る。彼女に正体を晒すような行動は何一つしていない。依が田中維継と言葉を交わしたのだってつい昨日のことだ。
おそらくは私服姿が目立ったのだろう。それについては迂闊だったかもしれないが、この高校――練習試合の会場となった、依と維継が通う学び舎――のテニスコートは学校の敷地から突出するような位置にあり、つまりは外部の人間が気軽に見物できる環境なのだった。たまたま、今は依以外にそういう人間がいなかっただけのことで。
それでも背筋を冷たいモノが伝う。
瞳の奥に揺れる炎が見えたのは、果たして本当に目の錯覚だったのか。

思ったよりも厄介なことになりそうだなと依は密かに嘆息した。


月を悼む 2

「見てきたよ」
声をかければ、古びたブランコに力なく座り込んでいた少年が顔を上げた。昨日よりもその色は悪い。
「……また?」
問えば頷く。さてどこから話したものかと依は秋らしく澄んだ空を見上げ、ペンキの剥げかけた支柱に凭れた。そろそろ日が傾き始める時刻だ。少年――田中維継が動く気配はない。相当、参っているのだろう。精神的にも肉体的にも。
維継と待ち合わせしたのは、彼の家の近くだという小さな公園だった。彼は電車通学組なので、そこは学校からはかなり離れている。弓と鉢合わせする心配がなさそうことだけが幸いだった。
「俺が出てきたのは大将戦が始まる少し前だったから、まだ学校にいるとおも」
「ふっ、」
依の遠回しな思いやりは維継が吹き出すことによって遮られた。
「……月宮って、……コフウな言葉遣いすんのな」
古風。そんなことを言われたのは初めてだ。
キョトンとした依を彼は見て、慌てて手を振った(別に気を悪くしたわけではないのだが)。
「……や、ごめん。……大丈夫だよ、アイツはこっちに来ることはないんだ」
アイツ――弓。彼女は、
「夢に出るばっかりで」
このひと月ほど、毎晩のように彼の夢に現れるのだという。
「……それはさ」
「ああ」
シチュエーションは様々だそうだ。付き合っていた当時の思い出をなぞるようなものから、ただ恨みに満ちた目で彼女が迫ってくるものまで――
「でも最後は一緒。昨日、言ったとおり」
そして、どんな状況であれ彼は彼女に首を絞められるところで目が覚めるのだという。
《元彼氏》にとっては切なさ、あるいは甘い痛みを伴ってしかるべき掌の感触。常日頃冷え性を悩みとしていたという彼女の、少し温度が低く、吸い付くようになめらかなそれ――
かつて絡めた五本の指は、今や見えない痕を彼の首すじに刻むのみなのだという。
維継は深い溜息を吐いた。
「あー、の、さ。昨日、聞けなかったんだけど」
それを音と気配で捉えつつ、依は明後日の方向を見たまま言葉を発する。人の恋路の末路など、必要に迫られなければ知りたくもないし、聞きたくもない。けれど今は仕方がない。
「……二股かけた?」
元彼氏はブランコから落ちた。
「な、な、な」
「状況からそう推測するのが一番わかりやすいってだけだよ……ほら、手」
引っ張り上げた身体は見た目に違わず酷く軽く、でもそれは最近の心労のせいもあるのかもしれかった。
「詳しいことはいいよ。必要ないから」
ただ、今の依が知りたかったのは、
「結構ひどいこと、したね?」
青ざめた彼はかすかに頷き、そのまま俯いた。
「それが半年前か。……その、もう一人の《彼女》とは」
「……別れた……3ヶ月くらい前に」
閃くものがあった。しかしその時期的な符号に維継は気づいていないようだ。
それだけ追いつめられているのだろう、無理もない。依はなるべく優しい声を出そうと試みる。
「なるほどね……ちなみに今は?」
「一応、フリー」
「いちおう、ね」
しまった。
虐めるつもりは全くないのだけれども、維継がますます小さくなってしまったのを見て依は慌てた。これではまるで逆効果だ。
「ごめん、そういう意味じゃ……とにかく、君の家、行こうか」
フラリと立ち上がった彼――ある意味では加害者と言えるのかもしれず、しかし今は純粋に被害者だ――に、依は急いで肩を貸す。

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