両親は共働き、大学生になった姉は春から家を出た。道すがら聞いた家族構成をそっくり表す、そこはそんな家だった。いかにも現代的な一戸建て、先祖代々土地に棲みつく依や周辺の家々にはない佇まい―― 玄関先に並べられたプランターには菊に似た洋風の植物が形良く植えられていて、なぜか依は感動した。 「どうした?……え、名前?それの?……知らねーけど、そんな珍しいモンじゃないだろ。……どうぞ」 植物に明るくないらしい息子はクラスメートの賞賛に少しも頓着することなく、そうそっけなく言うと扉を開けた。 よその家の匂いがした。 たたきから床までの高低差は依の家のそれより若干大きかった。きっと建築様式の和と洋の違いに由来するのだろう。 小さく来訪の挨拶を呟き、依は丁寧に靴を揃えた。正面の階段を上がる。短い廊下の向かって左には壁と窓のみで、右側に幾つか並んだ木製の扉の手前から二番目が維継の部屋なのだと言う。 「散らかってるけど」 それはあながち謙遜でもなかった。 けれど食物の類が撒き散らされていることもまたなかったから、依は否定の言葉を軽く唇に乗せながら一歩、部屋の中に踏み込む。 予想通り《臭い》はなかった。 「彼女から贈られたものは?」 維継を怖がらせないため、できるだけ柔らかい発声を意識する。それでも彼の表情が強ばるのは、この場合仕方のないことだろうか。 交際期間はおよそ半年だったのだという。それが高校生として平均的なのかどうなのか、そういったことに疎い依にはわからない。 「夢が続いて一週間くらい経ったときに……全部、」 「正解」 消え入りそうな声で申告をした本人は、直ちに目を丸くした。 おおかた咎められるとでも思っていたのだろう。依はニッコリ笑ってみせる。 「よすががあれば道が通じる……ちなみに、もし写真とかあったらそれも処分したほうがいいと思う」 「あ、それも」 「上出来。……なんて言っちゃあ可哀想だけどね。……うん、それじゃ、行こうか」 「へ」 握った拳はさりげなく後ろに隠した。掌の内に閉じ込めたモノが暴れる気配はない。 「ここには何もない。田中君が彼女と逢っていたのは、主にどこ?」 「田中君のほうがよっぽど古風だと思う」 「何が」 「いや……」 神社で逢引なんて、古風というよりはベタだ。ベタベタだ。 「……もしかして、彼女が?」 まさかとは思うが、いずれこうなる――彼女の方が未練を残して別れることになる、と予期しての場所選びだったのだろうか。そうだとしたら女性は恐ろしいとでも言う他ないのだが。 「え?ああ、ここ?うーん」 眉根を寄せて考え込む維継の、その表情にもどこかしら年齢に不似合いな陰があり、依は他人事ながら彼の将来を心配してしまう。外見が良いというのも考えものかもしれない。 「……覚えてない……でも、そうなのかも」 「そっか……わかった。でも、そうか、うん」 電車に乗っておよそ20分、改札を出てさらに20分。彼らの地元からは随分と離れてしまったそこは、言うなれば彼女の《地元》だった。 「僕も《ここ》は知らなかった」 意味ありげな依の言葉に維継はおかしな顔をした。 「月宮の家、こっちだっけ?」 「ううん」 「だよな……チャリ組だろ?たしか」 「え、あ、よく知ってるね。そう、《この地域》は何ていうか……ちょっと有名なんだよね」 さらに頭上の疑問符を増やした維継には微笑みかけるだけに留め、依は小さく息を吐いた。 左肩から斜めに掛けたキャンバス地の鞄を背負い直す。これがなければ始まらない。 丹田に力を込めた。 維継が唾を飲む音が聞こえた。空気が変わったのに気づいたか。 頓着せず、依は目を閉じた。額の真ん中に意識を集中させる。 瞼の裏に黒白の反転した残像が映る。今在るものの影形、本来ならそこに残るのはそれだけのはずだが―― 目を開いた依は迷うことなく拝殿の裏に回った。維継は足を縺れさせながら付いてくる。それを振り向くことはなく、けれど先ほどテニスコートを後にした時のように小さく小さく嘆息する。 本当は見せずに済ませたいところだが、彼の部屋でのことといい、事態はそこそこに深刻なところまで進行しているようだった。だから、仕方ない。 裏手はちょっとした森のようになっていた。 敷地自体は随分広い、けれどいかにも訪れる者の少なさそうな神さびた空気を纏うこの神社は、鳥居と拝殿以外は様々な種類の樹木で覆われているような状態で、だから逢引に使っていた頃の維継はきっと気づかなかったのだろう。 拝殿のすぐ裏は何のためのスペースになっているのか。 伸び切った下草の合間合間に覗く石は一体、何なのか。 嵯峨野にこれに似た風景を持つ寺があったな、と頭の隅で思う。たしか化野念仏寺とか言ったか。 化野――すなわち、墓場。 「うげっ……」 しゃがみ込んだ依の背後からひょいと首を突き出した維継は、全身を緊張させた後、その場に尻餅をつくと手足を必死に動かして後ずさろうとした。 「田中君、それ、あんま意味ない。むしろ俺から離れないで」 いっそ冷たく響くほどの語調で諭すと、彼は素直に依にしがみついてきた。 素直すぎる。 思わず苦笑を浮かべかけ、依は唇を引き締めた。素手で辺りの地面を探る。不自然に草の生えていない、土が柔らかな個所はすぐに見つかった。 依は必要のないパフォーマンスは好まない性分だ。だから速やかに軍手をはめ、持参のシャベルで黙々と掘り返した。そんな依を、維継は息をひそめて見守っているようだ。 手ごたえがあった。 「ちょっと息止めて。すぐ終わる」 言うなり自身も息を吸い込み、一気に《それ》を掘り出すと、 間髪入れずに鞄から出した小瓶の中身を思い切りぶちまけた。 逆さにしたガラス瓶(依はかつて、中華屋にある醤油入れのような形だと発言して叔父を笑わせたことがある)、から最後の一滴まで滴り落ちるのを確認してから深く息を吐く。 「もういいよ」 顔を真っ赤にした維継が腹式呼吸のように息を吐き出すのを横目に見ながら、依は《それ》を開けにかかる。素朴な組木細工で出来た箱はあっけなくその蓋を開き、 闇が、零れた。 鼻をつく臭いについ眉根が寄ってしまう。維継が息を飲む音が聞こえた。 「な、んだよこれ……」 ゾロリと湧き出したのは長い髪の毛の束。更にそれに絡まっている、赤黒い塊が悪臭の原因だった。 毛羽立ち、原型を留めていないが元は毛糸だろう。きっとそれに、染み込ませたのだ。 「……血?」 「あんまり言いたくないけど経血だと思う」 一息に言うと、口を押さえた維継の顔色は蒼を通り越して白くなった。依の胸は痛む。 「ごめん。とりあえずここ、離れよう」 やはり鞄から小さな黒いビニール袋を取り出すと手早くそれらを入れ、口を閉める。空になったガラス瓶共々肩掛けの奥に放り込み、見えないようにした。それで幾分、重い空気が抜けた。 どうやら腰も抜けたらしい維継を励ましながら、何だか今日はこんなことばかりしているなと依は少し可笑しくなったが、勿論そんなことよりも疲労感のほうが大きかった。 ブルンと頭を振る。 一瞬だけ瞑った瞼の裏に何時間か前に見た弓の鋭い眼差しが映って、すぐ消えた。 「あの地域は、……ちょっと変わった風習が残っているところなんだよね」 もうだいぶ辺りは暗くなっている。地平線の向こうに沈みかけた太陽は、間もなく完全にその姿を没するだろう。どこか暖かなところで話をできればと依は思ったのだが、風に当たりたいという維継の主張で結局、二人は先ほどの公園に舞い戻っていた。 「……風習?」 「元々は豊作を希うためのものだったらしい。一年の農事のはじまりである事八日、特別なやり方で作った組み木細工の箱に米や作物の種子なんかを入れて自分の農地に埋める――組み木は《呪術》、中身は《自分が得たい富》の象徴だね。稲作やってる家なら米粒、畑なら植えている作物の種――今じゃ考えられないけど、40年くらい前まではあの辺りは田圃だらけだったらしいから――で、それを縁のある土地に埋める、つまり土地神様に供することで、この呪術は発動する」 「……は、」 「ま、要は《呪い》の作法ってこと。本来の意味としては《祝い》だけど」 維継の視線が傍らの鞄に向いた。だから依はさっとそれを背後に隠す。 「大丈夫。彼女のやり方はめちゃくちゃだ」 「……え、だって」 「《縁》っていうのは難しくてね。人間同士だってそうだろ、どちらかかがどれだけもう一方のことを好きでも、受け入れられなきゃ意味がない」 それはまさに今の《彼》と《彼女》の問題に通じる答えで、その皮肉さに依は少しだけ眉根を寄せた。 「土地神なんかと縁を結ぶには、やっぱりそれなりの手順が必要だ。たぶん彼女は、自分たちに馴染みのある場所でさえあればどこでもいいと思ったんだろうね。且つ、いかにも《霊的》なエネルギーに満ちていそうな場所。……素人の考えそうなことだ」 「え」 パクパクと口を開け閉めする維継のことは意図的に無視した。最後の言葉はつい口をついてしまったものだけれども、やはり言わない方が良かっただろうか。 「水子」 だから依は、あえてインパクトのある単語を彼の前に放つ。 「墓碑銘もなければそもそも墓石用にきちんと切り出した石でもない。……あそこは生まれなかった子供たちのための鎮魂の場所だ。大方、恨みの念に共鳴しそうだとも思ったんだろう」 吐き出した言葉の分だけ息を吸って、依は《これから》のことを考えた。すなわち鞄の中のモノの始末について。 覚悟していたほど暗い気持ちにはならなかった。それが怒りのせいなのだと、年若い依はまだ気づけない。 ――あそこまでされちゃあ、仕方ない。 自分がこの《仕事》を任されたのも何かの因縁なのだろうと、ただそう思うことにした。 正直に言って、維継から相談を受けた時は決していい気分はしなかったのだ。 《夢》の内容と頻度から言って、彼が彼女から何らかの攻撃を受けているのは明らかだった。想いが強すぎて生霊が飛ぶ、というレベルとは違う。そこにははっきりと《悪意》があり、彼を傷つける《意図》があった。 ――悪意のある意図……《呪い》。 そして依は遠い記憶に思いを馳せる。あれはたしか彼が中学に進学した年のこと、 修行の時は厳しい叔父が輪をかけて厳しい顔をして彼に話をした光景を。 ――人の行いには必ず責任がつきまとう。 ――何かを害そうとした者は、必ず同じだけの報いを受ける。 ――《人を呪わば穴二つ》……お前はこの諺の続きを知っているか? と、思いのほか近くから何かの飛び立つ音がして依は我に返る。ふと傍らの維継を見ると、可哀想な色男は顔面蒼白のまま固まっていた。 その目は眼前の風景を映していない。だから依は、 「大丈夫だって!」 もはや色をなくしたクラスメートの背中を右手のひらで思い切り叩いた。それでようやく彼の瞳の焦点は合う。 「彼女はあそこに埋めるのが最適だと思ったみたいだけど、正直、逆効果だって言わざるを得ない。彼女の念それ自体と、あそこを棲家とする色々なモノが混ざり合ってもう訳がわかんないことになってる。呪いなんて大層なもんじゃない、今やこれはただの《八つ当たり》だ」 しっかり閉まった鞄の蓋をひとつ叩いて依はおどけてみせた。 「じゃ、じゃあ……これでもう、終わり、なのか」 ようやっと絞り出された言葉に大きく頷き、 「ただし」 言葉を継ぐと維継は再び肩を強ばらせた。 「彼女のことはなるべく考えないで。憎むなんて、もってのほか」 うえ、というような音が細い喉の奥から漏らされるのももっともだと思うが、こればかりは仕方ない。 「人の想いって……生きているヒトのオモイって、すごくすごく重いんだよ」 洒落じゃなくてさ。そんな風に言っても、想われ人は唇を噛み締めるばかりだ。 「朝起きたら塩を撒けとか、この方角には足を向けるなとか……そういう具体的なことで解決できたらいいんだけど、そうもいかなくて」 この場合、問題の根本は彼女が彼に向ける気持ちだ。 きちんと終わりを迎えられることなく、未だ芯に炎を持って燻り続ける熱い火種。 「忘れるのが一番。あとは、あえて言うなら水辺にはなるべく近づかないで。この辺はそんなにないから平気だと思うけど……あ、池とかはないけどあの神社は論外ね」 クラスメートは重々しい顔で頷いた。 その決意は並々ならぬものに見えたから、依はようやく心から微笑んで、 きっとあと一悶着あるだろうなと思った。 率直に言って彼から相談を受けたときにいい気分はしなかった。 呪いを解くということはそれを返すことに他ならない。 しかし理由が何であれ、最終的に依はそれを選んだ。 人を呪わば――穴二つ掘れ。 代償は受けるつもりだ。 >>> |