事態が動いたのはそれから二日後の火曜日だった。
キヨメの一環とか何とか適当に維継を言いくるめて共にした下校の途中、四ツ角を曲がった依は、
「あ」
「ん?」
「ううん。……ちょっと用事を思い出したんだけど付き合ってもらっていい?」
「へ、うん、いいけど。何?駅前?」
「いや、こっちだ」
そのまま次の角を曲がった。駅の方向に背が向く。そのまま真っ直ぐしばらく歩き、やがて戻り着いた学び舎の位置をも通り越す。
「……体育館裏は駄目だな」
「ん、何か言ったか?」
「ひとりごとー」
やがて至ったのは住宅街の外れにポツンとある小さな広場。つい二日ほど前、維継と話をした公園より狭く、遊具も滑り台と地面に半分埋まっているタイヤが幾つかあるくらいしかない。そのためか人の姿もない。
見通しのいいそのスペースの最奥まで至り、依は前を向いたまま声を張り上げた。
「出て来なよ」
ゆっくり振り向く。驚いた顔の維継を軽く押しやり、2、3歩歩く。
広場の入口に設けられた小さな花壇、すぐ脇に立つベージュ色の二階屋。その向こうで黒いものが揺れた、と思ったらそれはフードに付いた紐だったらしい。
現れた人物は全身を黒一色に染めていた。黒のパーカー、黒のジャージ、靴紐に至るまで闇夜の鴉のような漆黒だ。口元を覆うマスクだけが白い。
「ゆ」
そんな姿でも彼女が誰だかわかった維継を、依はさすがだな、と思う。決して口には出さないけれど。
「斎藤弓さんだよね、初めまして。俺は彼のクラスメートです」
非礼と知りつつ名は名乗らない。
「お前……何……!」
くぐもった声は怒りに満ちているが、依を覚えている様子はない。やはりあれは杞憂だった。
殊更に余裕を示し、依は軽く両手を広げた。
「風邪でも引いたかな、斎藤さん。よく聞こえないからもう少しこっちに来てもらえる?」
「つ、つきみ」
「君は黙ってて」
維継は黙った。素直な少年である。
動こうとしない弓のほうへ依は大胆に歩を進めた。大股で迷いなく――
その時、弓がマスクをかなぐり捨て、フードも外した。

美しい白い肌の右半分が、見るも無残に焼け爛れていた。

背後で維継がひぃ、というような声を上げ、依は歩みを止める。
「結構、出たね。原因に心当たりはある?」
火傷に心当たりも何もない、本来ならば。弓は片側だけ不自然に引き攣った唇をゆっくり開いた。
「お前か。私の、お呪い(おまじない)を返したのは」
「呪い(のろい)だろ。関係ないモノまで巻き込むなよ、君の気持ちもわからないことはないけど」
弓は沈黙した。歯ぎしりの音が聞こえるようだった。
「…………お前に、何が、わかる……!」
対する依はあくまで淡々とした態度を崩さない。それは作戦でも、また本心でもあった。
「彼が、君と二股かけてた《彼女》と別れたから腹が立ったんでしょ。君を捨ててまで付き合った女、今まではそれを恨んでればよかったけどそうもいかなくなってしまった……まさかとは思うけど、彼女にも何かしてたの?」
「してないッ!!」
吠えるように叫ぶと、弓は右手に持ったマスクを叩きつけるように捨てた。
それを冷ややかに見る依に、彼女の怒りは温度を上げる。
「私は、ただ……維継に、報いを……」
「君は神か」
呆れたような依の一言。弓は瞬間、身を硬くする。
「憎い気持ちを持て余しただけでしょ。偉そうなこと、言うんじゃない」
「……うわあああああ!!」
それは刹那、秋の夕日を跳ね返してキラリと光った。
さすがはテニスで鍛えた俊足、
そして細い身体の正面にしっかりと構えられた両手。
彼女が依の眼前1メートルに迫ったところで銀の刃がぐん、と前に突き出される。

全てがスローモーションのように見えた。依には。

だから身体を左に避け、そのまま彼女の肘のあたりを掴んだ。

「月宮!!」
黙ってろって言ったのに、と依は眉をひそめて彼女を捕獲しにかかる。
手に持ったサバイバルナイフは叩き落とし、腕は背中の方に回して膝を付かせる。流石に顔面から倒れないようにと若干の気は遣ったが、何しろ命の危険があったので丁重に扱うわけにもいかなかった。
地面に押し付けた華奢な体躯を見下ろし、さてどうするかとオレンジ色の空を仰いだとき。
「ゆみ!!!」
背後で悲痛な声が響いた。
首だけ回してそこを見る。
小柄な人影はすぐに走り寄り、依の正面に回ると立ち止まった。息が荒い。
短かな半白髪は乱れている。年配の女性がよく身に纏っているのを見かける、暗い色の上着にスラックス。目元がかすかに彼女に――弓に、似ていた。
「……ええと」
「この子の、祖母です、」
まだ息を切らしながら、小さな老婆は捕らえられた孫娘の前に跪く。
そしてそのまま土下座した。
「申し訳ございません。この子は……ちょっと目を離した隙に……」
「お、ばあ、ちゃ」
依は少しだけ腕の力を緩めてやる。それでも彼女の戦闘意欲はとうに削がれてしまったようだ。
「な、んで、こん、な」
「先ほど、お声が聞こえました……あなた、《月宮》の」
「……は?」
「……ご存知でしたか」
鬼の形相をした孫娘の頭を押さえつけ、老婆は一層平伏した。
「この子が起こした面倒の始末は私が付けます。だから、どうか、これ以上は」
顔を上げることすら考えられないような彼女の様子は依の心を一層冷やし、同時に酷く穏やかな声を出させる。
「大丈夫です……幸い、怪我人も出てませんし、ただ……あの毛糸がまた彼の身辺に現れるようなことがあれば、その時は」
ポカンと口を開けた維継に説明しなければいけないことがまた増えてしまった。
秋の陽は釣瓶落とし。ほんのわずかな応酬のあいだにひたひたと夜が近づいてきている。

***

「彼女があの箱の中に封じたもの……多分、手編みの毛糸のマフラーの切れ端だ」
依の言葉に、維継は表情を引き攣らせながらも首をかしげた。
「確かにマフラーをもらったことは……でも、それは捨てて」
「もう一本編んだんだろうね。同じ色の毛糸、同じ編み方で」
依が維継の部屋で捕まえたのはフワフワした赤い色の埃のようなものだった。
毛糸をほぐしたらきっとああいう物体になるのだろう。
「想いの篭った毛糸の精が田中君をストーカーしてたのさ」
厳密に言うと少し違うのだけれども、このくらい茶化して伝えておいたほうが良いと思った。
彼が彼女を少しでも忘れやすくするために。
「何しろマフラー一本分。結構な量だ。どこに行っても君は毛糸に監視されて、影響を受けて……でも、ま、これで本当に終わるだろう」
さて、と立ち上がった依の左袖がくん、と引かれた。
長い悪夢から解放された《被害者》は、全然嬉しくなさそうな顔をしている。必死な目。
「アイツはっ……」
「さあ。でもあのお婆さんはいろいろな事情に通じてそうだったから……傷、残らないといいね。まだ若い娘さんだし」
「…………月宮は、」
その先を言い淀む維継を見て、依は、ああ彼女は彼のこんな優しさが好きだったのかな、と他人事のように思う。
「知ってたよ」

知っていた。

依が維継の障りを排せば、弓がどうなるかということくらい。

「人でなしだと思う?」

薄く微笑みを形作った依を見、維継は息を呑んで――

「あら!維継!?何してるのこんなトコで!」
緊張した空気を破壊したのは甲高い女性の声。
緩く波打つボブヘアーのシルエットが夕闇を切り取るように嫌にくっきり見えた。

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