春はあけぼの――夏は、夜。
1000年も昔にそんなことを書いた女性に、実は依は共感するところが多分にあったのだけれども(伊達に日本文学専攻などというコースに籍を置いているわけではない)、
それでも彼女が想定した夏の景色がこんなバカ騒ぎではなかっただろうということだけは、わかる。
「化野化野、ちょっとこれ飲んでから走ってみ」
「バカ!急性のアルコール中毒になっちゃうでしょ!!」
ヘラヘラと笑う維継は完全に出来上がっていて、よせばいいのにゆかりはその言動にいちいち真っ向から噛み付いている。
「へーきだよ、じゃオレやってみせっから」
「やめてよ!いいよ!!」
それがますます彼を面白がらせているのだと、依は指摘しようとしてやめた。
「やめな、維継。代わりに俺がやったげるから」
「やめてよ!!!」
本気で顔を引き攣らせたゆかりを見、依は親友その一と一緒に笑う。
たまにはこんなふうにハメを外すのも悪くないかもしれない。
腕に下げたビニール袋が揺れた。
幾つもの安酒と共にコンビニのカゴに放り込まれたのは言わずと知れた夏の風物詩。お楽しみはまだこれからだ。

キャンパスの最寄からおよそ二駅。休日の昼間はバーベキュー客で賑わうその河原に依と維継、そしてゆかりが到着した時には既に午後9時を過ぎていた。
日が落ちてからも気温の下がる気配がない。きっと今夜は熱帯夜だ。
じっとりと重い空気の中、少し酔いの回った頭で依は、歓声を上げながら親友二人が花火セットの封を開けようと悪戦苦闘しているのを眺めている。
発案者は維継、仕向けたのは依だ。だってゆかりがあんまり羨ましそうにそれを見ていたから。
――やったこと、ないんだろうな。
少なくともこの数年は。溜息を吐きそうになるのをそっと飲み込む。
《施術》をするようになってほどなく、依は彼女の事情を知ることになった。軒先から落ちる雨粒のようにポツポツと少しずつ語られるそれは、予想を遥かに上回る壮絶なものだった――
バリリ、と音を立てて薄いビニール袋が破れた。バラバラと中身がこぼれ、依は慌てて駆け寄る。
「わ、すごい!ねずみ花火もあるよ!」
そんなことには一向頓着せずに目を輝かせたゆかり(彼女は酒には強いようで全く様子の変わる気配がない)はしかし、数分後には悲鳴を上げて逃げ惑うこととなった。
原因は断じてネズミ型をした花火ではない。それより余程タチの悪いヒト型の酔っ払い――田中維継その人だ。
今も右手に1本、左手に2本の手持ち花火を携えた彼がおもむろに蝋燭に近づくのを、彼女は何やら喚きながら止めようとしている。
「やめて田中君!小学生みたいなことはやめて!」
「化野こそ学級委員みたいなこと言うのやめてくださいー」
辺りはもうすっかり暗く、ささやかな灯火が照らす範囲は広くない。だから維継がどんな顔をしているかはわからなかったが、その色については想像がついた。首まで染まる鮮やかな朱だ。
遅生まれゆえ、本来はまだそういうものに手を出してはいけないはずの彼は、大学に入学して早々に「サークルの洗礼を受け」、結果として大変な酒好きに変貌していた。
決して強い方ではないのだが、飲みぶりが良い。そして速やかにアルコールが体内に回ると、普段のおよそ1.5倍の陽気さと世話焼きが発揮される。
その性質は上述のサークル(たしかマスコミ研究会だかなんだか)やクラスコンパでは場を盛り上げる役として大いに重宝されている(らしい。彼は付き合いが非常に広いため伝聞も含む)が、親しい友人同士のごく小さな集まりでは不要といっても差し支えない程度の美点であったと言わざるを得ない。
何しろ気安さがそうさせるのか、彼は依や化野ゆかりと飲むときは大抵、その「美点」を損なってあまりあるハメの外しっぷりを見せてくれるのだ。3本の花火に火を点けた維継はそれらがきらめく白い炎を噴出すのを見るや、器用にも1本を口にくわえた。ゆかりが飛び退く。
「はんほうふう!!」
「はいはい三刀流ね、田中君ゾロ派だもんね、せめて喋るのやめて!あとこっちこないで!!」
実に酔っ払いらしからぬ速度で駆け回る維継の後ろに残るは光の軌跡。依は少し目を瞬かせ、
「依!見てないで助けてよ!!」
どうにか狼藉者から逃れようとしているゆかりに向かって大きく手を振った。しかし実際のところ、彼と彼らのいる場所はそれほど離れていない。
「他人事みたいな顔すんなー!!」
その証拠に彼女はすぐに彼の場所まで至り、息を弾ませながらしゃがみこむ。
だから後に続いた親友には、手を伸ばしてストップの合図を出した。
何だかんだ普段ははぐらかしているものの、依は維継を心の底から信頼している。
彼の持つ本当の美点は、酩酊状態でも失われることがないということくらいわかっていた。
「だめだよ維継、この子インドア派だから死んじゃう」
「ば、馬鹿にして……!」
出会いからおよそ3年。維継のあからさまでない(それゆえ人を惹きつける)優しさには、成長と共に確実に磨きがかかっていると依は思っている(悲しいかな、だからこそ女性関係の受難に遭いやすいというのはまた別のお話)。
果たして徐々にスピードを下げた維継がゆっくり立ち止まると、折よく花火も収束を迎えた。
目と目を合わせ、目だけで笑う。始めから守られているお姫様は気づきもせずに、友人が撒き散らした燃えかすを目を尖らせながら拾い集めている。
「ホンットにもう、大学生にもなって……河原を汚さないの!」
心優しき酔っ払いはわざとらしく肩をすくめた。
「ホンットに化野、委員長みたいだな。今日からイインチョーって呼ぶぞ」
「何その軽いいじめ!」
ぎゃいぎゃいとやり合う彼らを依は黙って見つめていた。最近こんなシチュエーションが多い気がしてならないが、依にとっては嬉しいかぎりだ。
何しろ今ではほとんど信じられないけれど、この、双方優しすぎるほど優しい二人は、出会った当初はほとんど犬猿の仲だったのだ。たとえば維継を緑髪の剣士の立場に置くならば、ゆかりは煙草を加えたコックの役回り――とは言いすぎか。
とまれあの漫画ほど表立った対立はなかったとしても、未だ継続する女性恐怖症の維継は最初できる限りゆかりを避けたし、そもそも人間恐怖症であったゆかりは維継を徹底的に拒絶していた。
「……何がきっかけだったんだっけ」
呟いた依を同時に振り向く二人の友。
目を丸くして少し口を開けた全く同じ二つの表情がおかしくて、依は腹を抱えて笑った。


月を悼む 3


「……ああ、思い出した」
『……何を』
電話の向こうの声は重く沈んだままだ。それはそうだろう。
この通話が二人の今生の別れになる。
あの夏の回想をまだ引きずっていた依は小さく微笑んだ。それは。自嘲の笑み。
あれからまだ半年しか経っていないのに。
「維継とあの子の馴れ初めさ。ほら、前期の試験期間に入ったばっかの頃、俺があの子にノート貸してさ、それを維継に回してくれって言って……あの子、すげー静かな図書館で思いっきり『たなきゃきゅん!!』って」
『……ふっ』
思わず、といった様子で維継が吹き出し――数秒のきまり悪げな沈黙の後、彼は渋々話に乗る。
『アイツ……普段あんま喋んねえから、いざって時、舌が回んねえんだよ』
「その通り」
『あんなツラして根暗だからな』
「もうちょっと積極的に他人に接することができたら、きっとすごくモテるのにね」
沈黙。
依の中で彼女と同等に扱われている親友は、深く息を吐いた。
『……馴れ初めとかやめてくれよ』
「何?ホントは満更でもないくせに」
『…………お前、だろ、』
「維継」
それ以上の言葉は言わせない。
「……あの子を頼むね」
「……な、」
だって依はもう現世には留まれないから。
「やめろよ、なんで、そんな、……よ、」
「名前を呼んじゃ駄目だ」
二重の意味を込めて言った。賢い親友は勿論、理解した。
「あの子の《厄》は俺が全部持っていく」
維継が息を飲む。
数秒の後、依にとって無二の親友が零したのはただの吐息で。
「…………本当は、」
だからこそ依は自分が知り得た全てを開示するほか術がない。
彼の優しさに応えるために。
「《厄》じゃ……ないのかも、しれないけど」
「……え?」
言わないで済ませられるならどんなに良かったか。
そう思う程度には、依は彼女に――もう決して名前を呼べない彼女に、思い入れてしまっていた。
「割印ってわかる?」
「え、あの……書類とかに跨って押す、」
不意に吹き付けた風に依は首を竦め、開け放していた自室の窓を空いている手でそっと閉める。
がらんとした部屋はそうでなくても温度が低い。
元々、作り付けの家具以外の物はほとんど持ち込んでいなかった。それも今は全てまとめてしまった。
「俺にはそう見えるんだ」
親友との会話に意識を戻す。これがただの《呪い》ならば、
「あれは……あの子を不幸にするために編まれたものじゃない」
依はきっともっと別の手段を取っていただろう。
たとえば、今、送話口の向こうにいる親友を助けた3年前のように、容赦なく。
「《呪い》じゃない……あれは《祈り》だ」
本当はそれ以上に相応しい言葉があったのだけれども。
依はまだ十代の子供だったから、それをそのまま表現するには、いかんせん自尊心が許しかねた。
「へ?」
「あの子の幸せを願って掛けられたものだったっていうこと」
親友は絶句した。当然のことだと、思う。
「でも、現実的に、彼女は独りでいるしかなくなって」
だからこそ赦せなかったのだ。
《呪い》の――否、《祈り》――《祝い》の、掛け手を。
「だから俺は全部持っていくよ」
たとえ彼女が――化野ゆかりが、定められた幸福な運命に従うことができなくなったとしても。
「あの子はこれから本当にひとりになるだろう」
既に半分人を辞めたモノの託宣を、
残される運命の、ただの人間は無言で聞く。
「…………俺が心から信頼する誰かが、全てが済んだあと、その傍にいてくれたらいいと思う……」
その言葉こそが一つの呪いになるのだと、
わかっていたけれども止められなかった。

その程度には、まだ、子供だった。

「あだ……あの子、には、言わないでね」
そう伝えることが精一杯。
「これからの人生に必要のないことだから」

その結末を、依は見届けることが叶わなかったのだけれども。




それから長い長い時間が過ぎた。
とはいえ人間の時間で言うならばホンの5年と、半年くらいになるのか。

そのうち生者として過ごしたのは5年だった。
けれどあの、骨の髄まで冷え切るような早春の夜、それは無残にも断ち切られて――






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