《意識》を取り戻した後、最初に目に映ったのは澄んだ水色の空だった。

大気に濁りがない。それが季節ゆえのことなのだということに思い至るだけの知性を、残念ながら彼は持ち合わせていなかった。
自分が何者なのかさえわからない。
ただその色を見ることができたことに無上の喜びを感じるのみ。
感情のままに高く高く舞い上がった。ダンスを踊るように。
「……は、風、……いね」
下方で交わされる声に惹かれ、ふとそちらを見た。
長い黒髪の少女と、白髪の――しかし体格からは老人とも思い難い――男性が何やら喋りながら洗濯物を干している、ようだ。
広い庭。古めかしいアパート。
二階に四つ並んだ窓、一番端に位置するそれは固く閉ざされていて、なぜかひどく胸が痛んだ。
同時に喉の奥から焦燥感が駆け上がる。

自分は今、何か、するべきことがあるはずだ。

かつて己が誰か分かっていた頃、最期までできなかったことを。

《彼女》のためと言いながら、その実、自分勝手な欲のために叶えられなかったことを。

「だからこないだ……したじゃ……ほらこれ!!」
男性が誇らしげに手の中の布を広げた。
瞬間、
「……うぇっ!? ちょっと待て俺のパンツ!!」
慌てふためく声が耳を刺したが、構いはしない。
今やざわめく風と一体になった彼は、目当てのものを右へ左へと翻弄する。
早く、早く、取りに来い。
「明神やめろ、うたかた荘の恥だ!!」
と、また新たな声が加わった。素早く目を向ければ、二人の少年――しかしあれは明らかに生きてはいない――が右往左往しているところだった。
無視する。薄っぺらい布切れはハタハタと気持ちよさそうにはためいている。それに合わせるように彼の気持ちもどんどんと高揚する。

かつての自分だったらば申し訳なく思ったところだろう。何であれ、誰か他人を困らせることは。
今はそんな気持ち欠片もなかった。
人は死ねば魂だけになるという。それはつまり、一番強い想いが剥き出しになってしまうということなのだろう。

他人なんて――《彼女》以外の人間なんて、どうでもよかった。

自分が本当に守りたかったのは、
ただ笑顔を見たかったのは、
本当は――死んでも離れたくなどなかったのは、

ただ一人だ。

ずっと存在を無視し続けてきた血の滲むような想いを全身に漲らせ、
庭で一際大きな木の枝先に舞い降りた依はただ、その窓が開かれるのを待つ。
それはゆかりの部屋。
依のみじかい生涯で、誰よりも慈しんだ女性が出て行ってしまった後の、部屋。

***

男性にしては長めの黒髪を持つその青年は、長いこと立ち尽くしたままだった。

魂だけになった依が白い髪をした青年にその窓を開かせてから、およそ半時間ほどが経っていた。
部屋に集まった人々が顔をしかめ、嘆息し、それぞれに散ってしまったその後でも動くことのなかった青年を、依はじっと見る。
きっと彼が《そう》なのだろう。ゆかりが持っていた《割印》の、片割れ。
死者だったのは予想外だが、確かに綺麗な魂の真ん中で水神の印が光っていた。
確認し、依はただそこに留まった。静かに、まるでその場にいない者かのように。

魂同士、コンタクトを取ることは可能なはずだった。けれどあえて存在を隠したまま、見つめた。

憎い、とか妬ましい、とかいう感情は不思議なほど湧いてこなかった。

ただ、パズルのピースがカチリと嵌ったのを見るような気持ち。

深く納得して――ひどく切ない、気持ち。

「……ゆかり」
吐息を零すように青年が呟いた。
もしも愛しいという想いに色を付けられるならば、今この瞬間、この部屋は鮮やかな珊瑚色で覆われていることだろう。そんな想いを抱くほど、それは熱い囁きだった。
もう流れるはずのない液体がひと雫、頬を伝うのを依は感じる。

彼が。

彼だ。

彼女の傍にいられるのは。

「ああ、俺は」
依の涙に応えるように、名前も知らぬ彼が言葉を重ねる。
「あの時、既に」
伝わらないのは承知の上で、深い蒼のカーテンを揺らした。

そうだよ。
君は、正しいよ。
どうか、早く、彼女を。

彼はこちらを見たけれど、その瞳にまだ決意の色はない。

だから背中を押すために、依はもう一度風を起こした。

此度のそれは溢れる気持ちがそうさせるだけのものではない。

何につけ、目ざとい依はちゃんと最初から気づいていた(扉が開かれ、人々が集まった最初から、だ)。
だって、かつて自分は彼女と一年近く一緒にいたのだから。

素直に助けを求められない彼女が、どんな形で想いを吐き出すかということくらい、百も千も承知の上だ。

藍色の布切れが宙を舞い、すぐにヒラリと畳に落ちる。目を瞠った青年は、時をおかずにポロポロと美しい涙をその頬に伝わせた。
だから彼の身体に熱が満ちるのを、依はただ待って、
とうとうその言葉が聞こえた時、ニッコリと微笑んだ。
彼は数秒、またもこちらを見たけれども、すぐに身を翻してとぷり、と扉に沈む。
きっと、依のことは最後まで知らないままなのだろう。
それでいい。
早く行くんだ、
君の運命の女性(ひと)のところへ。

***

そうして彼女は、今、《彼》の――ガクという名前らしいことだけはやり取りの中でどうにか分かった――腕の中でごうごうと泣いている。
きれいになったな、と思う。
いつか冬の夜空の下で見た泣き顔さえも依にとっては掛け値なく美しいものだったけれど、今の彼女はまるで別人のように綺麗になっていた、のだった。
依はもう魂だけの存在だから、それを嘆くことはない。
彼女の幸福こそが己の幸福なのだ。
見上げれば雨はもう止んでいた。急速に空が晴れていく。金色の光が雲間から差す。
ポタリ、と、
目の前に生い茂る木々の一つから雫が滴った時、
依はふっと背後に気配を感じた。
同時に鼻腔をくすぐったのは、甘く切ない――それでいて華やかな――
「あ」
彼と彼女が同時に声を上げた。視線を辿ればその先には、虹。
そしてその天への架け橋に勝るとも劣らない幸福の予感を、寄り添う恋人たちは持っていた。
だから依はもう大丈夫だ、と、思って、
束の間、彼女の顔をじっと見て。

さよならの代わりに一度だけ口付けた。

ゆかりがどんな顔をしたのかは分からなかった。その瞬間、依の視界が白く霞んだから。

ふわふわと意識がほどけていく。彼らの姿が遠くなり、

空へ、空へと依は昇る。

そこに行くべきだ、と思えたし、抵抗する力も何も残っていなかったから。

ただ幸福だった。するべきことはし終えた、と。

再び自我を失った彼が、やがて意識すら手放す直前。
――ありがとう。
思いがけなく大気を満たした《あの花》の香りと、温かなはなむけの言葉がその身を包む。
ゆっくりと目を閉じた。

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